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ノンフィクションクイズ小説『ボルティモアへ』第26回「圧勝」

伝説の『第13回アメリカ横断ウルトラクイズ』に集う若きクイズ王たちの青春を、気鋭のライター「てれびのスキマ」(戸部田誠)が描く話題沸騰のノンフィクション小説『ボルティモアへ』。1988年、因縁の早稲田VS立命館は最終決戦へ!

『ボルティモアへ』目次

第0回 連載開始予告
第1回 消えた天才
第2回 『ウルトラクイズ』の衝撃
第3回 レスポンスタイム
第4回 宝の地図
第5回 前哨戦
第6回 ハチマキ娘
第7回 ニューヨークで踊る男
第8回 奇跡の会合
第9回 クイズサークル
第10回 昭和40年男
第11回 マイコンボーイ
第12回 伝説のテストマッチ
第13回 立命オープン
第14回 RUQS革命
第15回 聖地 フラワー
第16回 トリビアル・パスート
第17回 地獄の細道
第18回 クイズ列車
第19回 ポロロッカ
第20回 エンドレスナイト
第21回 大阪大学“RUQS”学部
第22回 ハイキングクイズ
第23回 玉屋
第24回 邪道
第25回 補欠合格
第26回 圧勝
第27回 coming soon…
(以降、毎週木曜日公開予定)



Ⅶ 長戸勇人、23歳。常勝

圧勝

「長戸、すまん!」

プリンセス号の船上に降り立った瀬間康仁はカメラの先で見ているであろう長戸勇人に向かって言った。『第12回ウルトラクイズ』の決勝、瀬間は紋付羽織袴を身にまとっていた。

この一言は放送ではカットされたが、もし放送されていれば、翌年への壮大な伏線となっていただろう。

前年の稲川良夫の優勝で、『ウルトラクイズ』は彼らにとって、より身近なものとなっていた。RUQS内では、決勝でどんな衣装を着るかは日常的なネタになっていた。

「全裸にボディペインティングはどうや?」
「放送できるかい!」

『ウルトラクイズ』に出ることはもはや当然のことで、『ウルトラクイズ』にどのように出るか、という意識に変わっていたのだ。

「紋付袴なんてどや?」
「ええやん!」
「成田には書生みたいなみすぼらしい格好して行って、決勝で出世すんねん」

これは長戸のアイデアだった。それを瀬間は決勝の部分だけ“パクった”。だから、謝ったのだ。

出場者は決勝のためにスーツを用意するようにと1次予選を突破した際にスタッフから言われる。けれど、瀬間は「補欠合格」なので聞いていなかったから用意していかなかった。……というテイだった。実際には、一度、『第10回』で予選突破しているため、その時に聞いていたが“知らんぷり”をした。

ツアー中、1週間に1度程度、出場者にはアンケートが配られる。スタッフが出場者の状況を把握するためだ。アンケートには自由記入欄があり、そこに瀬間は、「僕が決勝に残ったら紋付袴を用意してください」と書き続けた。その結果、スタッフは上質な紋付羽織袴を用意してくれたのだ。日本でなら紋付袴はピンからキリまで選んで用意できるが、アメリカでは上質なものしか手に入らない。だからスタッフから「絶対に汚すな」と念を押された。

決勝の相手は早稲田大学の大江成人。誤答がきっかけで「ババピー」と呼ばれ、その劇的な勝ち進み方で「彼ほどこの旅でたくましくなった男は過去に見当たりません」と福留功男に評された男だ。

瀬間はそんな大江を圧倒し、9-3でリーチをかけた。だが、大江も意地を見せ、3問連続正解。9-6まで迫った。まさに「たくましさ」を見せて健闘していた。
それでも瀬間は冷静に次の問題で押し勝ち、栄冠を手にした。RUQSによる2連覇の達成だった。

優勝旗を掲げた瀬間は、そこに記された松尾清三、北川宣浩、宗田利八郎、森田敬和といったレジェンドたちの名前を目で追った。

「俺の名前もここに入るのか……」
改めて「大変なことをしたんだ」と思った。

ちなみに、瀬間はその後、このツアーのために棒に振った公務員試験を受け直し就職した。大半のクイズプレイヤーがそうであるように、就職後、クイズは趣味に楽しむ程度になり、仕事に邁進するようになった。

「今のところ、残念ながらあれが人生のピークなんだよね」

瀬間は当時を振り返りながら、複雑な感情をにじませて言った。

「それを超えるためにがんばっているけど、まだ超えられてない。プリンセス号でのジャンパンより旨い勝利の美酒に酔いたいんだよ……」

『ウルトラクイズ』優勝という称号は自分自身の人生にとってあまりにも高い壁となった。それだけ大きなことを成し遂げたのだ。

『ウルトラ』から31年後。瀬間はあのツアー以来、初めて海外旅行に行った。向かった先は、激闘を繰り広げた南米の地。親娘2代にわたり「RUQS」の会員となった娘の留学先でもあった。娘の案内でめぐる南米の街並み。31年前の記憶がありありと蘇ってきた。その風景を娘と眺めながら、これに勝る幸福はないと噛み締めていた。

『ウルトラクイズ』の放送が終わると、やってくるのが学生クイズ王決定戦『マン・オブ・ザ・イヤー』。RUQSにとって3度目の遠征だった。

『第11回ウルトラ』では稲川が、その年の『マンオブ』では加藤実が、そして『第12回』で瀬間が優勝し、RUQSはまさに破竹の勢い。常勝軍団と呼ぶに相応しい状態だった。会員も40人近くに膨れ上がっていた。長戸勇人は瀬間から引き継ぎ、5代目会長にもなっていた。盟友であり宿敵である加藤実は大学を卒業し就職したため、もう『マンオブ』に出場権はない。常勝軍団「RUQS」の会長として優勝しか考えられなかった。

「今年こそは絶対に勝つ」

そう意気込んだ。いや、意気込むというよりは自分の中で確信していた。
前年、加藤実に苦汁をなめた関西クイズ愛好会の「ハイキングクイズ」でもこの年、優勝を果たした。クイズプレイヤーとして最高に脂が乗っていた。自分が勝つ姿しか想像がつかなかった。

長戸の“ライバル”である早稲田大の西村顕治は既に大学を卒業していた。長戸の前に立ちはだかったのは、「早稲田にエースが誕生したんだよ」と西村が誇らしげに讃える齊藤喜徳や、5年生になっていた秋利美紀雄、そして、秋利が「俺の作品」と胸を張って送り出す伊藤知子。例年以上にピリピリとした緊張感に包まれていた。

緊張感が高まっていたのはひとつ特別な理由があった。実はこの大会のすぐ後に、ある番組の収録が控えていたのだ。その番組こそ、『アタック25』だ。

もちろん、ただの『アタック25』ではない。番組700回記念で行われることになった「大学対抗100人の大サバイバル」大会だ。

4つの大学が出場し、各サークル25人ずつの団体戦というかつてないものだった。『マンオブ』は多くの大学が参加するが、あくまでも個人戦。今でこそ、サークル対抗戦は珍しいものではなくなったが、当時、このような規模、しかもテレビ番組で行われることなんてありえなかった。

対戦する大学に選ばれたのは、立命館、早稲田、法政、東大の4つ。当時の実力でいえば、法政や東大が選ばれたのは疑問符がつく。今でこそ、クイズの分野でもトップに立つ東大クイズ研だが、当時は有力なプレイヤーはほとんどいなかった。西側で立命に匹敵する実力を持った名古屋大が入っていないのはおかしいし、関東の大学でも慶應や一橋などが早稲田に次ぐ存在だった。実はこの4つの大学が選ばれたのは前年に同番組で行われた大学生大会が盛り上がったからだ。その時に出場した4人が、この4つの大学の在学生だった。その構図をそのまま採用したのだ。

だから、「西」のトップの立命館と「東」のトップの早稲田が揃ったのは、ある意味偶然ともいえる。どちらの大学も、法政や東大はもはや眼中になかった。

立命館「RUQS」vs早稲田「WQSS」。
このメンツを賭けた直接対決は絶対に勝たなければならない。

結果的にこの年の『マンオブ』は、『アタック25』の“前哨戦”のような位置づけになったのだ。

これまで名古屋大が3年連続トップを獲っていた予選のペーパークイズでは、長戸が近似値差で秋利をかわし1位に。その勢いのまま、決勝に進出した。

決勝に残ったのは他にRUQSの鎌田弘、早稲田の齊藤喜徳、名古屋大の伊藤知子ら。
5ポイント先取の早押しクイズ対決に長戸はわずか8問目で優勝を決めた。
圧勝だった。

「俺がもっともクイズが強かったのは『第13回ウルトラ』の89年ではない。前年の88年だ」

のちに長戸自身がそう語るように、長戸はこの年、充実の時を迎えていた。
長戸に続いたのは鎌田弘。RUQSで1位・2位を独占した。
前哨戦はRUQSの完勝だった。

(第27回に続く)

著者 てれびのスキマ(戸部田誠)
1978年福岡県生まれ。お笑い、格闘技、ドラマなどを愛する、テレビっ子ライター。「週刊文春」「水道橋博士のメルマ旬報」などで連載中。主な著書に『タモリ学』『コントに捧げた内村光良の怒り』『1989年のテレビっ子』『笑福亭鶴瓶論』『全部やれ。日本テレビ えげつない勝ち方』がある。
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