伝説の『第13回アメリカ横断ウルトラクイズ』に集う若きクイズ王たちの青春を、気鋭のライター「てれびのスキマ」(戸部田誠)が描く話題沸騰のノンフィクション小説『ボルティモアへ』。いよいよ舞台は立命館大学へ!
『ボルティモアへ』目次
第0回 連載開始予告
第1回 消えた天才
第2回 『ウルトラクイズ』の衝撃
第3回 レスポンスタイム
第4回 宝の地図
第5回 前哨戦
第6回 ハチマキ娘
第7回 ニューヨークで踊る男
第8回 奇跡の会合
第9回 クイズサークル
第10回 昭和40年男
第11回 マイコンボーイ
第12回 伝説のテストマッチ
第13回 立命オープン
第14回 RUQS革命
第15回 coming soon…
(以降、毎週木曜日公開予定)
Ⅳ 長戸勇人、20歳。革命せよ
RUQS革命
「あっ、稲川さんっすか!」
加藤実と稲川良夫が話しているところに、ドタバタと慌ただしく長戸勇人が入ってくるなり言った。
長戸は旧友と話しているのが約2ヶ月前に『パネルクイズアタック25』で優勝した男だとすぐにわかった。
長戸は東京で浪人中だったが、11月の終わりに関西でしか行われない神戸大学の模擬試験のため、一時、帰郷していた。そのタイミングで加藤のもとに遊びに来たのだ。だったら、立命館大学祭で出会った稲川と引き合わせてみよう、と加藤は思い、稲川も誘った。
稲川は2人より3歳年上だが、壁は一切なくすぐに打ち解けた。この日は「稲川さん」と呼んでいた長戸もいつの頃からか「稲ちゃん」と呼ぶようになるほどオープンな先輩だった。
「今度、うちのサークルに佐原くんが来てくれることになったんだよ」
「え、サハラって、『アタック25』でパーフェクト優勝した佐原恵一さん!?」
稲川の言葉に2人は声を合わせて驚きの声をあげた。
稲川はパリ旅行で、当時、2回生だった佐原と知り合い、いきなり「RUQSの会長になってほしい」とスカウトしたのだ。
「ZZZでは、みんな麻雀ばっかりやってて、ほとんどクイズができないんです」
加藤がふと不満を漏らしたのを稲川は聞き逃さなかった。
「だったら、ウチに来ない?」
「いいんですか!? お願いします!」
「僕も行っていいですか?」
長戸が聞いた。
「もちろん!」
長戸は、大学受験に失敗し、2浪目が決定すると帰郷。加藤と長戸はRUQSに加入した。ちなみに長戸が受験した中でもっとも合格に近かったのが早稲田大学。自己採点でわずか2点だけ足りなかった。もし、ここで長戸が早稲田に合格し、のちにRUQSのライバルとなる早稲田大学のクイズ研究会に入っていたら、日本のクイズ史は大きく変わっていただろう。運命のあやを感じずにはいられない。
しかし、一方で特に初期からのメンバーはクイズに“本気”の人たちだけではなかった。もともと稲川に声をかけられ「ちょっとクイズが好きな仲間が集まっている」といったサークルだった。稲川もサークルを強くして発展させていきたいという思いはあったが、そのノウハウも実力も当時はなかったため、いわゆる「仲良しサークル」のままだった。
クイズをやりながらも雑誌を読んでいたり、雑談したりしている人たちがいる。瀬間が初めて行った例会で稲川の出題にクレームを入れた際、冷たい目線を浴びせたのも彼らだった。
「うっとうしいなあ」
長戸はその空気が我慢ならなかった。
長戸は入ったばかり、しかも浪人生でありながら、持ち前のリーダーシップで「こういうふうにしていきましょう」などとサークルを主導し、どんどんと真剣なクイズの場に変えていった。
「サークルを作った以上は、実力のあるサークルにしたい」と思っていた稲川も長戸を後押しした。
長戸や加藤、そして瀬間ら新入生を中心に「クイズを真剣にやる」という空気ができあがっていき、RUQSの雰囲気は一変した。クイズに本気になれないメンバーは、そこに居づらくなり、自然と淘汰されていった。夏頃には“本気”のメンバーだけになり文字通りの「クイズ研究会」となったのだ。これがのちに「RUQS革命」と呼ばれる。
「クイズを楽しくやればいいじゃないか」という声も確かにあった。けれど長戸の考えは違った。
「クイズを楽しむのは当たり前やん。強くならなあかん。強くなって初めて、本当の意味で楽しむことができるんや」
そうして「楽しみながら強くなる」と並び、「楽しむために強くなる」というスローガンが生まれた。
前者はペーパークイズ。出題担当者がそれぞれ好きなジャンルから10問出題する。「スポーツ」や「文学」など大きな括りではなく、「コーヒー」「ウルトラセブン」「仁藤優子」など狭いピンポイントなジャンルにするのが特徴的だった。その問題と結果をレジュメにした資料を配布していた。レジュメを作成したのには理由がある。サークルを管轄していた中央事務局から活動実績を報告するように言われていたからだ。活動実績を示すためには何らかの資料が必要だ。そのために、自分たちが問題を出し合ってクイズをやっていたという記録を残すためレジュメを作成したのだ。
結果としてこの形式は、それぞれの得意不得意の分野が可視化され、クイズの実力アップにもつながる上、それぞれのクイズ出題能力を上げることにもつながった。平均点やそれぞれの問題の正答率が出る。それが極端に高かったり低かったりするとダメな出題者の烙印を押されてしまうため、どのような問題を出せばちょうどいい難易度になるのかを考え抜いて問題を作るようになっていくからだ。出題能力が上がれば、自ずと出題者の意図がわかるようになり、解答者としてのレベルも相乗効果で上がっていく。瀬間はこれで初めて問題を作るようになったが、問題を作る側の人間にならないと、早押しには勝てないと、作ってみて初めてわかった。
後者の「スペシャル」では、早押しクイズ主体のオリジナルのクイズを企画していた。担当者が企画・出題・司会などすべてを担い、出題するクイズもオリジナルを原則としていた。これにより、様々なルールを考え、それを経験することで、『ウルトラクイズ』などで突然新しい形式のクイズが来ても、ルールを聞けば、番組スタッフの思考を読み取り、どうすればルールの中で有利になるかをいち早く見抜くことができるようになっていったのだ。
また、長戸のもうひとつ意図があった。
いくらクイズに対して本気のメンバーが集っても、その中でどうしても温度差ができてしまう。そうして分裂し、崩壊していったサークルがあることを長戸は知っていた。それを回避するため、みんながコミュニケーションをとりながら参加できるように会報を持ち回りで作ることにしたのだ。クイズに本気なメンバーだけが残った例会のクイズ自体は熱がこもったいい雰囲気になっていたが、個人個人のつながりは薄いままで、お互いがどんな人間なのか、ハッキリとわかっていなかった。だが、会報の制作過程や、そこに書かれている文章などでお互いを知ることになり、結束が強くなっていったのだ。この頃の20人ほどのメンバーが一段高いレベルのクイズ能力を持った長戸や加藤に引き上げられるようにクイズ力を高め、初期RUQSを支えていくことになる。
何しろ、行けば必ず快楽が得られるのだから。
1985年8月10日、加藤実は9月に放送される『アップダウンクイズ』に出場するため再び毎日放送に向かった。もちろんRUQS勢の多くも応援に駆けつけた。
「新高校生特集」に続き、彼が出場したのは「全国選抜大学生大会」。
他の出場者には、やはり高校時代に『アップダウンクイズ』優勝経験があり、長戸がホノルルクラブに入るのを間接的に助けた東京大学3年の堤秀成や、のちに『史上最強のクイズ王決定戦』で王者に君臨し、その豊かな体躯から「クイズ界の横綱」と呼ばれることになる早稲田大学2年の西村顕治ら錚々たるメンバーがいた。
司会は小池清から西郷輝彦に変わっていた。
加藤は最初の2問をあっさり正解し、快調のスタートを切った。
一方の西村は、序盤は解答権すら取ることができず、ようやく早押しに勝つもいきなり誤答してしまう。2回誤答すれば失格という厳しいルールで後がなくなってしまった。一方、加藤は順調に正解を重ね、ゴンドラを上げていく。
西村は中盤にようやくエンジンがかかり、追い上げていくが、加藤の勢いは止まらない。
「ヒット曲『夏ざかりほの字組』をデュエットしているコンビは田原俊……」
というところまで聞いて、すかさず加藤が押し「研ナオコさん!」と力強く答え、花吹雪が舞った。「高校生特集」に続き、1番乗りで優勝を果たしたのだ。
その後、西村も遅れて10問正解しハワイ旅行を獲得したが、加藤はこの年、4月にのちの『ウルトラクイズ』王者3人を蹴散らし、8月には、のちの「史上最強のクイズ王」にも勝利したのだ。
(第15回に続く)
1978年福岡県生まれ。お笑い、格闘技、ドラマなどを愛する、テレビっ子ライター。「週刊文春」「水道橋博士のメルマ旬報」などで連載中。主な著書に『タモリ学』『コントに捧げた内村光良の怒り』『1989年のテレビっ子』『笑福亭鶴瓶論』『全部やれ。日本テレビ えげつない勝ち方』がある。