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ノンフィクションクイズ小説『ボルティモアへ』第2回「『ウルトラクイズ』の衝撃」

伝説の『第13回アメリカ横断ウルトラクイズ』に集う若きクイズ王たちの青春を、気鋭のライター「てれびのスキマ」(戸部田誠)が描く話題沸騰のノンフィクション小説『ボルティモアへ』。渾身の新連載、第2回!

『ボルティモアへ』目次

第0回 連載開始予告
第1回 消えた天才
第2回 『ウルトラクイズ』の衝撃
第3回 coming soon…

(以降、毎週木曜日公開予定)



Ⅰ 長戸勇人、15歳。「天才」たちの出会い

「『ウルトラクイズ』の衝撃」

「4月の誕生石は、地球上の天然物……」
佐々木美絵アナウンサーの美しい声で最初の問題が読み上げられると、すかさず長戸勇人はボタンを押した。
「ダイヤモンド!」
「ダイヤモンド、結構!」
司会の小池清が称えると、長戸が座る解答席のゴンドラが一段上がった。
1981年4月に放送された『アップダウンクイズ』「新高校生特集」はこうして始まった。

長戸にとってそれは会心の“押し”だった。早押しクイズには問題文に「確定ポイント」などと呼ばれる箇所がある。問題の構造上、その答えがそのひとつしかないと確定できるところのことだ。冒頭の問題は「4月の誕生石は、地球上の天然物/でもっとも硬い物質です。何でしょう?」と続くが、まさに長戸が押したタイミングがそれだった。ポイントの前で押してしまうと答えの候補が複数あり、正解できるか否かに運の要素が入ってきてしまう。ポイントより後になってしまうと他の解答者に先に押される可能性が高くなってしまう。従って、いかにポイントに近い瞬間に押すかが早押しクイズにおける勝負の分かれ目になるのだ。
第1問で理想的な早押しができたことで、もう半分以上、達成感があった。ゴンドラが上がる感覚を味わいながら、長戸は思った。あとは、これを9回繰り返すだけだ。

解答席には左から北海道・札幌西高校の高橋康則、千葉・木更津高校の加藤実、東京・桜蔭高校の高林真弓、京都・嵯峨野高校の長戸勇人、大阪・大阪教育大学附属池田高校の青木紀美江、そして交通機関のトラブルで来られなかった福岡代表の代役である長戸の同級生・山田亘が並んでいる。
スタジオはなんだか少し寒く、照明のせいだろうか、ものが焦げたような匂いがしていた。長戸はそれを客観的に観察できるくらい冷静だった。
同じ学年で自分に勝てるような相手がいるわけがない。長戸はそう確信していたのだ。

しかし、2問目、3問目、4問目を立て続けに答えて一気に長戸の上に立った男がいた。
そう、加藤実である。
「ええっ!?」
声にこそ出さなかったが、長戸は内心驚いていた。

長戸がクイズと出会ったのは幼稚園のとき。TBSで放送されていたお昼の帯番組『ベルトクイズQ&Q』だった。
「次のアメリカ大統領は誰?」という問題が出され、3つのヒントが与えられる。それに幼き頃の長戸は「リンカーン!」と叫んだ。正解だった。
何を問われ、何を答えているのかわからない問題も多かったが、当てられた問題もあった。自分よりも年上の人たちが挑戦している問題が「わかる」。それがたまらなく嬉しかった。そんな優越感からか、学校がない長期休暇の時にそれを見るのが日課になった。だが、学校が始まれば、昼間のテレビを観る機会もなくなり、自然とアニメやバラエティ番組に興味が移った。その後は、『ウルトラマン』や『ルパン三世』、『宇宙戦艦ヤマト』、お笑いなら『吉本新喜劇』などを見る“普通の”関西の男の子になった。

長戸は、西陣織を営む会社の社長の息子として1965年に京都で生まれた。当時、長戸家は裕福だったが、73年に起こったオイルショックによって急転する。原糸価格の暴騰などによって西陣織業界全体が壊滅的なダメージを受け、その余波で長戸の会社も倒産してしまったのだ。また、それとは直接関係なく長戸が6歳の頃に、母は離婚し家を出ていってしまっていた。だから、長戸はこの頃すでに、世の無常観を知るとともに「人は自由なんだ」と感じていた。

さらに長戸が10歳の時に、一家は太秦へと引っ越した。小児喘息を発症した長戸のため、空気の良い環境を求めたからだ。それまで、裕福な西陣のおっとりした友達に囲まれて育った長戸は、太秦のある意味でやんちゃで元気な子どもたちと交わり、大きなカルチャーショックを受けた。
それまでトップクラスだった成績は、転校した途端に平均以下に下がってしまった。その学校全体が優秀だったわけではない。むしろ、学力レベルは前の学校のほうが上だったはず。けれど、長戸自身の成績は急下降してしまったのだ。

長戸は、周りに順応するのが精一杯だった。「アホと思われてもええからオモロいやつになろう」。そう思って教室で日々を過ごしていた。勉強も手を抜いていたわけではない。しかし、必死にがんばっても、なぜか頭に入ってこないのだ。自分でもそれが不思議だった。夏休みになって、長戸はふと思った。
「ちょっと待てよ。『アホと思われてもええから』っていう考えはハズそう」
すると2学期になって見る見るうちに成績が上がり始めたのだ。この時、まだ5年生にもかかわらず、長戸は悟った。「心は言葉で変わる」と。そして、「能力を発揮するときは心が優先する」のだと。

その翌年の秋、長戸の運命を変える番組が始まった。
『史上最大!アメリカ横断ウルトラクイズ』

1977年10月20日、『木曜スペシャル』の枠にそのタイトルが初めて刻まれた。新聞のラ・テ欄はこう続く。
「9大関門・1000問のクイズ挑戦の旅▽残酷!敗者は即時強制送還▽世界一の大女・カーター大統領そっくりクイズ 高島忠夫」

アメリカ横断? 1000問のクイズ挑戦の旅? 敗者は強制送還? これだけでは何がなんだかわからない。その後に続く、時の大統領カーターの名も混乱に拍車をかける。
この新聞の文言に惹かれたのか、前の週から繰り返し流れたCMで興味を持ったのか、あるいは本当にたまたまチャンネルを合わせたのかは記憶にない。けれど、小学6年生の長戸は磁石に吸い寄せられるように、その番組と“出会った”。

長戸だけではない。情報も乏しくビデオも普及していない時代にもかかわらず、不思議なことに、80年代後半に頭角を現すクイズプレイヤーのほとんどが、この第1回の放送をリアルタイムに“目撃”しているのだ。
当時は視聴者参加型のクイズ番組真っ盛り。この日も19時からはテレビ朝日系で『クイズタイムショック』、『木曜スペシャル』が始まる19時30分からはフジテレビでも『クイズグランプリ』の放送があった。そんな時代の中でも圧倒的に異色の番組が始まろうとしていた。
それはまさに「事件」と呼ぶにふさわしい番組だった。

後楽園球場に集まった404人もの挑戦者、彼らをアジテートする福留功男、勝ち残り意気揚々と空港にやってきた80人を待ち受ける「ジャンケン」という理不尽な関門、ようやく飛行機に乗ったと思ったら早速行われるペーパークイズ、その成績によっては飛行機から降りることも許されない。さらにアメリカ各地を舞台とするスケールの大きさ、難しい問題を次々に答えていく挑戦者、敗者に課せられる過酷な罰ゲーム……。そのすべてに長戸は、釘付けになった。

なんなんだ、これは?
単なる感動とは違う、驚きだけではない。言いようのない不思議な感覚に陥った。
ワクワクとした胸の高鳴りがやまないまま、アメリカ横断のクイズの旅の続きは、次週に持ち越された。どんな戦いが待っているのか。一体誰が優勝するのか。クイズ番組常連の藤原滋子か、松尾清三か……。果たして、番組の「コンピューター」の分析で次の脱落者と予想されてしまった「マドンナ」河村利枝は生き残ることができるのか。

早く来い来い木曜日――。

のちに番組のキャッチフレーズのひとつとなるそんな感情を長戸は既に心の中で叫んでいた。木曜日までその日が来るのを指折り数える。ああ、1日も待ちきれない。早く続きが見たい。こんなにも待ち焦がれたことは、今までなかった。
そしてようやく27日がやってきた。まさに長戸にとって“史上最大の木曜日”だった。

「当番組は、 人間の体力、 知力の限界に挑戦する超大型クイズ番組であり、 参加者はプライバシーを捨てて、 アドベンチャー精神に徹します」
企画会議で配られた資料の冒頭には、番組の趣旨としてそう書かれていた。
使用するクイズは1000問以上、移動距離は約1万7300キロ。かつてないスケールの番組だ。1ドル360円の時代には海外旅行など高嶺の花だった。その頃の名残で、多くのクイズ番組は「ハワイ旅行」を賞品としている。だったら逆に旅行自体を番組にすればいいじゃないかという逆転の発想から生まれた企画だ。
果たしてそんな番組は本当に実現できるのだろうか。誰もが首を傾げていた。だが、プロデューサーの佐藤孝吉は違っていた。

「これはテレビの革命だ!」
それまで長嶋茂雄の引退試合特番やアメリカの航空母艦エンタープライズに潜入取材したり、エジプトの砂漠にピラミッドを再現してしまった男だ。実現不可能と言われるような高い壁であればあるほど燃えた。
まだインターネットなどない時代、どこで知ったのか、参加応募者は3~4000人にのぼった。だったら最初の舞台は後楽園球場しかないと「直感」で決めた。球場の観客席に数千人が集まる光景。壮観ではないか、と。

しかし、当日の朝、集まったのは男265人、女139人の合計わずか404人だった。通常のスタジオ収録だったら400人以上いれば、大変な数だ。だが、ここは球場。404人ではスッカスカ。それをなんとか密集させスケール感を損なわないように演出していった。
「○×クイズ」に激しく一喜一憂する挑戦者たち。その表情の豊かさに、佐藤は番組の成功を確信したという。
凄い鉱脈を掘り当てたかもしれない。
その思いは旅が進んでいくにつれ、確信に変わっていった。

「2週連続でいきましょう!」
佐藤は旅の途中で、日本で制作を統括している石川一彦に電話をかけた。今では信じられないことだが、これだけの制作費をかけた番組がたった1週限りの放送の予定だったのだ。果たして番組は2週連続で放送され、大評判となった。

『ウルトラクイズ』は翌年「第2回」が放送され、出場者は700人。倍近くに増加。その後も回を追うごとに倍々ゲームのようにして増えていった。
もちろん、長戸もテレビの前にかじりつくようにして、番組を視聴した。
1回目の放送は「第1回」とついていない。だから、続くかどうかもわからない。従って、真の意味で視聴者の心に火をつけたのは「第2回」の放送だ。「これから毎年続いていくんだ!」「だったら出たい」と。長戸は中2で「第3回」の放送を見て、リアルに自分もこの番組に出て、勝ちたいと思い始めた。

その「第3回」の放送された1979年は、長戸にとって激動の年だった。多感だった中学2年生の長戸は鬱傾向が強くなり、友達以外としゃべることがツラくなってきた。その一方で小遣いをためてギターを弾き始めたのもこの頃だ。さらに、ある日突然、父親がいなくなった。経済的事情で別の場所で働くために出ていったのだが、事前には何も聞かされていなかったので、6歳のときに母親が蒸発したことを思い出し「またか」と思った。両親が不在になった長戸たち姉弟は、祖父母に育てられるようになった。そんな状況で『第3回ウルトラクイズ』を見た14歳の長戸は「クイズをやろう」と思った。遂にクイズプレイヤー・長戸勇人の時計が動き始めたのだ。もう悩んでいる暇なんてなかった。1日が72時間あればいいのに。長戸はそんなことを思うほど、クイズに夢中になっていった。

しかし、『ウルトラクイズ』の出場資格は「18歳以上(高校生不可)」。高校を卒業するまでは出たくても出られない。どうしようもなく、もどかしかった。
加藤実もまた同じように『ウルトラクイズ』に魅了されていた。いや、長戸や加藤だけではない。日本中で『ウルトラクイズ』を見た日本中の視聴者の多くは、その魔性の魅力の虜になったのだ。

(参考文献)
・佐藤孝吉:著『僕がテレビ屋サト―です』(文春文庫)
・福留功男:編著『ウルトラクイズ伝説』(日本テレビ放送網)

(第3回に続く)

著者 てれびのスキマ(戸部田誠)
1978年福岡県生まれ。お笑い、格闘技、ドラマなどを愛する、テレビっ子ライター。「週刊文春」「水道橋博士のメルマ旬報」などで連載中。主な著書に『タモリ学』『コントに捧げた内村光良の怒り』『1989年のテレビっ子』『笑福亭鶴瓶論』『全部やれ。日本テレビ えげつない勝ち方』がある。
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