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ノンフィクションクイズ小説『ボルティモアへ』第3回「レスポンスタイム」

伝説の『第13回アメリカ横断ウルトラクイズ』に集う若きクイズ王たちの青春を、気鋭のライター「てれびのスキマ」(戸部田誠)が描く話題沸騰のノンフィクション小説『ボルティモアへ』。渾身の新連載、第3回!

『ボルティモアへ』目次

第0回 連載開始予告
第1回 消えた天才
第2回 『ウルトラクイズ』の衝撃
第3回 レスポンスタイム
第4回 coming soon…

(以降、毎週木曜日公開予定)



Ⅰ 長戸勇人、15歳。「天才」たちの出会い

レスポンスタイム

『第3回ウルトラクイズ』がきっかけになり本格的にクイズを“始めた”長戸勇人が、まずやったのは、新聞配達のバイトだった。

それは一見、奇妙な選択かもしれない。もちろん、クイズの問題集などを買ってきて、クイズを解いたりもしていたし、『ウルトラクイズ』以外のクイズ番組も見るようになった。けれど、それだけではダメだと長戸は確信していた。そこで考え出したのが、「ビデオデッキを買うこと」だったのだ。80年前後、まだまだビデオデッキなど一般には普及していなかった頃。たまたま友人の家が電器店だったことで、いち早く実物と接することができた長戸は、クイズが強くなるためには、番組をビデオに録って繰り返し見ることが不可欠だと考えた。それはあまりにも慧眼だった。実はほぼ同時期、関東の著名なクイズマニアも番組のライブラリ化を始めていた。だが、彼は既に社会人。遠く関西の地で、中学生の彼がそれを思いついたのだ。

1980年7月、遂に自室にビデオデッキがやってきた。もっとも、そのビデオは当時始まったばかりでクイズと同じくらい長戸を夢中にさせた『ザ・ベストテン』(TBS)をクイズ番組以上に録ることになるのだが。

さらに長戸は、「早押しボタン」も自作した。
『ウルトラクイズ』の画面を凝視し、ボタンの形状を記憶し、京都の電気街・寺町通りを歩き回り、「これだ!」というスイッチを探し当てた。それをカマボコ板に釘で打ち付けた。電気コードもついていないから、当然ランプも何もつかない、「早押しボタン」と呼ぶにはあまりにもチープなもので、ただの「ボタン」だった。けれど、スイッチを押すと「カチッ」と手応えがある。長戸にはそれで十分だった。長戸はこの歳で既に見抜いていたのだ。クイズ番組、殊に『ウルトラクイズ』とは、「早押しクイズ」であり、それは即ち「押す」ことなのだと。

クイズ番組を見るときは、常にそのボタンを傍らに置いて、画面の解答者たちと早押し対決をするようになった。中学ではのちに『アップダウンクイズ』に代役で長戸と一緒に出ることになる山田を始めとする友人たちと問題を出し合って遊んだ。よく友達同士で早押しクイズで遊ぶ際、机を叩いたり、電卓を使ったりする。電卓はそれぞれの押すキーを決めておけば、後は画面に数字が表示されるので誰がいちばん早く押したかが一目瞭然でわかりやすい。だが、長戸はそれではダメだと思っていた。あくまでも、早押しボタンを押すことが大切なのだと。だから、電池式の早押し機を自作し、それを使ってクイズをしていた。それは驚くべきことだ。なにしろまだ、関東に大学クイズ研が誕生するかしないかの時期。しかも、大学のクイ研が早押し機を導入するのは設立から数年経ってからだ。にもかかわらず、この頃すでに京都の中学生たちが集まりボタンを使って早押しクイズに興じていたのだ。

そんなふうにクイズに夢中になっていた頃、ある日見たクイズ番組でこんな問題が出た。
「110番をしてから警察が来るまでの時間をなんという?」

あれ? この問題、別の番組で聞いたことがあるぞ。答えは確か「レスポンスタイム」だ。やはり正解だった。その瞬間、長戸は電撃が走ったような感覚を味わった。
そうか、同じ問題が出ることがあるんだ。だったら、もっとちゃんと見なければならない。いや、逆に言えば、よく出る問題をより多く知っていればおのずとクイズに強くなるということだ、と。ちなみにクイズで“よく出る問題”を今では「ベタ問題」と呼ぶが、この言葉を作ったのは長戸だ。1990年、長戸が所属していたクイズサークル「関西クイズ愛好会」の会報でよく出る問題をみんなで勉強しようというコーナーを書いた際、キャッチーな言葉はないかと考え、演芸用語と組み合わせたのが最初だという。これが一気に全国的に拡がっていった。そういった「ベタ問」の存在はクイズにハマった人たちの最初の“壁”になる。発想力や純粋な知識量で勝負したいと思ってやっていたら、何やら、そうじゃない“からくり”があるのだと知り、ある種、“ズルさ”のようなものを感じクイズを離れてしまう人は少なくない。だが、長戸は逆に目から鱗だった。「鍵」を拾ったように感じた。だから、それからはクイズ番組を見るのも、クイズの問題集を解くのも、まったく姿勢が変わっていった。

それから程なくして、1980年の秋、衝撃的な本が出版される。
『第2回ウルトラクイズ』の覇者・北川宣浩が書いた『TVクイズ大研究』だ。これは画期的な本だった。それまでクイズ本といえば、問題集がほとんど。しかしこの本はクイズ番組を研究し、それに出場し勝つためにはどのように練習すればいいか、そのノウハウなどが克明に著されていたのだ。長戸が漠然と考えていたことがより具体的で論理的・体系的に示されていた。長戸を含め、80年代以降に活躍するクイズプレイヤーたちのバイブルとなった。
長戸はこの本を手引にクイズ番組を見ながら「スコア」をつけ始め、本格的にクイズに没頭していくのだ。

加藤実もまた同じだった。
しかも、加藤は北川の存在を『ウルトラクイズ』で優勝する前から知っていた。加藤は中学の頃、電車で千葉から北九州を一人旅するほどの鉄道好きでもあった。いわゆる「鉄っちゃん」だ。北川は当時、「レイルウェイ・ライター」の種村直樹に師事し、彼の鉄道本にイラストや記事を書いていた。それを読んでいた加藤は、『第2回』で勝ち残っていく北川を見て「あっ!」と思った。何しろ、北川が自身で描いていた似顔絵とそっくりなのだ。だから、北川を応援したし、彼のクイズ本が出るとならばすぐに買って読み込んだ。そして、そこに書いてある練習法を実践したのだ。
この本の出会いでクイズ番組との向き合い方が劇的に変わった。ただ漫然と眺めながら、わかる問題を答えているようではダメだ、と。

千葉県の鋸南町で生まれた加藤実がクイズと出会ったのは幼稚園の頃だった。
長戸と同じようにTBSで放送されていたお昼の帯番組『ベルトクイズQ&Q』を見た。それを眺めながら加藤は思った。
「僕にもできる!」

長戸が夏休みが終わると番組を離れたのに反して、加藤はクイズにのめり込んだ。『アップダウンクイズ』や『クイズグランプリ』、『クイズタイムショック』……、クイズというものは何でも見て、ブラウン管の中の解答者と一緒になってクイズを考え、答えていた。

加藤は幼い頃から本の虫だった。親と買い物に行くと、玩具を買ってあげようか、などと言われる。けれど、加藤はそれに見向きもしなかった。すぐに本屋に向かい、目当ての本を買ってもらうまで動かないような子だった。当時もっとも好きだったのは小学館が出していた『なぜなに○○の学校』シリーズ。○○には、理科や社会などの各教科が入り、それぞれ小学校1年生から6年生版まであった。それを加藤は幼稚園児の頃に1年生版から順に買ってもらい、なんと小学校に入る前に6年生版まで読破したのだ。当時はまだ片面刷りだった広告の裏に本や新聞、のちには教科書などで知った情報を書き写し、それを体系的に線で結んでいく。加藤にとって、クイズの勉強と学校の勉強は同じだった。ひたすら書き、いつしか広告は分厚い束になっていった。

当然、学校の成績はクラスで飛び抜けていた。小学生になるとすぐ加藤は『ベルトクイズ』へ出場希望のハガキを出した。だが、返事は来なかった。なぜなら、応募資格が3年生からだったからだ。ちなみに加藤は2年生の頃、両親の離婚を機に引っ越し、館山の小学校に転校するが、その学校の同級生には、X JAPANのYOSHIKIとToshl、そして「CHA-CHA-CHA」や「ランバダ」で知られるようになる石井明美がいた。中でもToshlはクラスも一緒で仲がよく、学芸会には加藤の提案で、彼に和服で二葉百合子の「岸壁の母」を歌ってもらったりもしたという。

小学6年のときに始まった『アメリカ横断ウルトラクイズ』にもすぐにハガキを出した。応募資格はもちろんない。それどころか、「第2回」があるかどうかもわからない。けれど、居ても立っても居られなかった。早くクイズ番組に出て、自分の実力を試したい。そう思いながら、『アップダウンクイズ』に出るまで、何度となくハガキを書いたが、いずれも応募資格すらなかった。

加藤は常に早すぎたのだ。

そしてようやく応募資格を満たしたときに出したハガキが『アップダウンクイズ』の「新高校生特集」だった。
東京で行われた関東予選で加藤が叩き出した点数は、長戸を1点上回る28点。文句なしで予選を突破。いよいよ、自分が全国でどれくらいの位置にいるか試すことができる。

本番はわずか4日後。もうひとりの関東地区予選突破者である高林母子と東京駅で落ち合い、勇躍大阪へ向かった、
だが、それまで順調に走ってきた新幹線が遅れ始めた。名古屋駅の停車が長引き、岐阜羽島駅を通過する頃には目に見えてスピードが落ちた。米原駅を過ぎると事態はさらに悪化して、動いたり止まったりの繰り返しに。そしてとうとう京都で完全に止まってしまった。

それでも加藤は冷静だった。なにしろ生粋の「鉄っちゃん」だ。時刻表を読み解けば、アナウンスに従って「待つ」よりも一旦降りて在来線で大阪に向かったほうが早いことがわかった。加藤はすぐに車内の電話でスタッフに1時間程度遅れることを連絡し、一緒に乗っていた高林とその母を説得し新幹線を降り、目論見通り収録スタジオにたどり着いたのだった。
遂に幼いときから夢にまで見たクイズ番組の解答席に座ることができたのだ。

(第4回に続く)

著者 てれびのスキマ(戸部田誠)
1978年福岡県生まれ。お笑い、格闘技、ドラマなどを愛する、テレビっ子ライター。「週刊文春」「水道橋博士のメルマ旬報」などで連載中。主な著書に『タモリ学』『コントに捧げた内村光良の怒り』『1989年のテレビっ子』『笑福亭鶴瓶論』『全部やれ。日本テレビ えげつない勝ち方』がある。
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