伝説の『第13回アメリカ横断ウルトラクイズ』に集う若きクイズ王たちの青春を、気鋭のライター「てれびのスキマ」(戸部田誠)が描く話題沸騰のノンフィクション小説『ボルティモアへ』。いよいよ舞台は立命館大学へ!
『ボルティモアへ』目次
第0回 連載開始予告
第1回 消えた天才
第2回 『ウルトラクイズ』の衝撃
第3回 レスポンスタイム
第4回 宝の地図
第5回 前哨戦
第6回 ハチマキ娘
第7回 ニューヨークで踊る男
第8回 奇跡の会合
第9回 クイズサークル
第10回 昭和40年男
第11回 マイコンボーイ
第12回 伝説のテストマッチ
第13回 coming soon…
(以降、毎週木曜日公開予定)
Ⅳ 長戸勇人、20歳。革命せよ
伝説のテストマッチ
会場となった教室はただならぬ雰囲気に包まれていた。
ステージでは4人の男が早押しボタンを前に座っている。
問題が読み上げられるとそのうちの2人がもの凄いスピードでボタンを押していく。あとの2人はそれを唖然とした表情で見ていた。
次々に正答を積み重ねていくのは長戸勇人と加藤実である。
そして、それを横目に見ていたのは、稲川良夫と瀬間康仁。のちに『アメリカ横断ウルトラクイズ』で「第11回」、「第12回」王者となる2人だ。
1985年4月。立命館大学クイズソサエティー「RUQS」の新入生向けのサークル説明会。
そこで行われた“伝説のテストマッチ”である。
2浪して立命館大学に入学した瀬間は、映画研究会に入ろうと思っていた。映画少年だった彼は映画監督になりたかったのだ。けれど、覗いた映画研究会の雰囲気は自分とは合わなかった。コイツらとは、一緒に映画なんて撮れないな、と。他のサークルはないかと探していた瀬間の目に飛び込んできたのが「RUQS」のチラシだった。クイズ研究会か。ちょっと面白そうだ。瀬間は当たり前のように家族みんなでクイズ番組を見る家庭で育った。父や3つ上の兄に負けるのが悔しいと思いながら夢中になった。『ベルトクイズQ&Q』の小学生大会などを見て、これなら自分でも勝てると、応募したりもしていたが、予選などにお呼びがかかることがなかった。引き寄せられるように『アメリカ横断ウルトラクイズ』も見ていつか出たいと思うようになり、高校3年生の頃には『史上最大の敗者復活戦』に出場。1問目で敗れたが、その雰囲気を体感できたのは嬉しかった。だからクイズ研究会には興味があった。群馬県立高崎高校時代の現代国語の教師は「小説は読書のうちには入らない。岩波新書くらい読まないヤツはダメだ」という少し偏った考えを持っている人だったが、その影響もあり、毎月1冊以上、岩波新書を読んできた瀬間は知識量でも自信はあった。
「正岡子規の命日は何忌?」と稲川が出題すると、すかさず瀬間は手を挙げ「糸瓜(へちま)忌」と答えた。しかし、なぜか「不正解」とされてしまう。
瀬間が稲川に抗議すると、周りの会員から「新入生がクレームをつけるんだ?」というような訝し目な冷たい視線を感じた。
話にならないと思った。こんなところにいても意味がない。第一印象は最悪だった。
「いつもこんな感じで例会をやっています」
当時4回生の稲川は、そう言ってサークルの概要を新入生たちに紹介していく。自分は「RUQS」の創設者であり初代会長であること、1982年に誕生したこと、現在は『アタック25』でパーフェクト優勝を果たした佐原恵一が2代目の会長であること、現在の会員数などを一通り説明していった。話し終えると、稲川は言った。
「じゃあ、ちょっとデモンストレーションとして早押しクイズをやってみようか」
そこで会員の中から解答者として参加したのが、稲川の他には、京都大学生ながらRUQSに加入していた2回生の加藤実と、2浪中にもかかわらず、入会していた長戸勇人だった。
早押し機のボタンは4つある。あとひとり出場可能だ。
稲川の呼びかけに、瀬間は手を挙げた。もうここに来ることはないだろう。せっかく来たのだから最後にやってみようと思ったのだ。早押し機も触ってみたい。それまで見た例会の様子なら、自分もそこそこ答えられると思っていた。
こうして、のちに「第11回」から「第13回」の『ウルトラクイズ』王者3人と加藤実、4人の早押しクイズ対決という、あとから考えれば奇跡のような座組が実現したのだ。
果たして、このテストマッチは、加藤実が勝利するのだ。
出題された問題は40問。
長戸と加藤が怒涛の早押しで他を圧倒した。早押しのスピードは長戸のほうがやや早かったが誤答もあった。対して、加藤は解答権を得るとすべてに正解。その差で加藤に軍配が上がった。
一方で、稲川は5問目くらいの時点で、あまりの2人の早さに戦意喪失していた。
結局、稲川と瀬間は1ポイントも取ることはおろか、解答権すらただの一度も得ることができなかったのだ。
瀬間はこの惨敗でクイズ熱に火がついた。
すぐに映画研究会から鞍替えしてRUQSに入会した。
そんなに高い山があるのなら、それに青春をかけてもいい、と。
何しろ、東京での浪人中、クイズに明け暮れたのだ。予備校での勉強そっちのけだった。そんな中でも代々木ゼミナールで受けた佐藤忠志の英語の授業だけは熱心に聞き入った。ゴールドのド派手な衣装とヤクザ風の風貌からのちに「金ピカ先生」の異名で一世を風靡する講師だ。授業そのものよりも、物事を積み重ねて考えるのではなく、水平に並べて思考しなければいけないといった佐藤の考え方に強く影響を受けた。
念願だったホノルルクラブにも入ることができた。これ以上、東京にこだわる必要はないと、浪人2年目は京都の実家に戻り、詳しくは後述するが、程なくしてRUQSに入会することになった。
一方、前年、京都大学法学部に入学した加藤は大学まで自転車で10分ほどの熊野寮で生活をしていた。
昨今も大学側からの強制撤去問題で揺れ大きな話題を呼んでいる吉田寮と並び、京都大学を象徴する学生自治寮である。寮の運営は日常生活から各種行事に関することはもちろん、新入寮生の面接や選考に至るまですべて寮生たちによって決められていた。
熊野寮は1965年に開寮。鉄筋4階で400人を超す学生たちが生活をする京大最大の学生寄宿舎。そこかしこに「闘争」「団結」「革命」「決起」などと、いわゆる“トロ字”で書かれた看板やビラが貼られている。とても学生とは思えない各党派のメンバーも数多く住み、学生運動の雰囲気を色濃く残していた。
当時の寮費は月わずか300円。今では信じられない金額、というより、その頃でも破格だった。部屋は2段ベッドがふたつと机が4つあるだけの狭い4人部屋。共用のキッチンは、油にまみれ黒ずんでいる。寮の出入り口には大量の自転車が所狭しと並んでいる。そんな熊野寮は加藤にとって居心地のいい場所だった。
寮内は自然と上意下達がしっかりとできあがっていた。
「酒を飲むぞ」と上回生が言うと簡単な宴会が始まる。けれど普通と違うのは、その上回生が中華鍋を準備するのだ。
「俺が作るから、お前は見て勉強しろ」
そう言って、1回生に手伝わせる。もやしをどれだけ旨く炒めるか、それをどこで買ったら安いか。そんな風に、日常生活の些細な事柄から、大学側との闘争・交渉のノウハウまでが脈々と継承されていた。
京都大学の学内は加藤にとって夢のような場所だった。
教授陣が魅力的で講義も面白かったが、それ以上に加藤を虜にしたのは図書館だ。
法学部内の図書館だけでなく、至るところに図書館・図書室があり、もの凄い量の本がある。
大学に行くと加藤はすぐに図書館に向かい手当り次第に読み漁った。
講義が終わるのも待ちきれなかった。
早く図書館に行って、新しい本に出会いたい。
いつしか、図書館に行くことが大学へ行く一番の目的になっていた。
けれど、想像していたクイズサークルとはまったく違っていた。
早押しボタンもないのはもちろん、会員同士でクイズをやり始める気配すらなかった。
常時、例会に顔を出しているのは6人程度。彼らが、クイズとはまるで関係ない話を喋りながら、酒を飲んで、麻雀をする。辛うじてクイズサークルとしての活動といえば、京大の学園祭「11月祭」(通称「NF」)でクイズイベントを開催する程度だった。
加藤は落胆した。
「けど、俺には長戸勇人と青木紀美江がいる。それだけで十分だ」
別にクイズ研究会でクイズの勉強や練習をしなくても、自分にはクイズで認め合う仲間がいる。彼らと高め合えば、クイズ研究会なんていらない。加藤はそう思うようになっていた。
加藤にとって得ることがほとんどなかったサークルだったが、ひとつだけ、加藤に大きな変化をもたらすことになる。
そのたったひとつのことは、加藤にとって革命的な出会いだった。
1984年の秋、ZZZの会長を一人の男が尋ねてやってきた。
RUQS会長の稲川良夫だ。稲川は立命館大学で行われる学祭で各大学のクイズ研究会の対抗戦を企画していた。ついてはZZZにも参加してほしいと申し出た。
ZZZの会長は快諾し、ニヤリと笑って言った。
「ウチにはクイズを1万問ストックしている1回生がいますよ」
もちろん、加藤実である。
(第13回に続く)
1978年福岡県生まれ。お笑い、格闘技、ドラマなどを愛する、テレビっ子ライター。「週刊文春」「水道橋博士のメルマ旬報」などで連載中。主な著書に『タモリ学』『コントに捧げた内村光良の怒り』『1989年のテレビっ子』『笑福亭鶴瓶論』『全部やれ。日本テレビ えげつない勝ち方』がある。