Subscribe / Share

Toggle

column

ノンフィクションクイズ小説『ボルティモアへ』第10回「昭和40年男」

伝説の『第13回アメリカ横断ウルトラクイズ』に集う若きクイズ王たちの青春を、気鋭のライター「てれびのスキマ」(戸部田誠)が描く話題沸騰のノンフィクション小説『ボルティモアへ』。第3章、上京編スタート!

『ボルティモアへ』目次

第0回 連載開始予告
第1回 消えた天才
第2回 『ウルトラクイズ』の衝撃
第3回 レスポンスタイム
第4回 宝の地図
第5回 前哨戦
第6回 ハチマキ娘
第7回 ニューヨークで踊る男
第8回 奇跡の会合
第9回 クイズサークル
第10回 昭和40年男
第11回 coming soon…
(以降、毎週木曜日公開予定)



Ⅲ 長戸勇人、19歳。約束の地へ

昭和40年男

そこには15人ほどの人たちが集まっていた。
名門クイズサークル「ホノルルクラブ」の例会である。長戸勇人と青木紀美江は、緊張の面持ちで隅の席に座った。
他の参加者は、年齢も性別もバラバラ。けれど、ほとんどがクイズ番組で見知った人たちだった。けれど、周囲をじっくり観察できる余裕もなく、おいそれと話しかけることなんてできなかった。

まず、ペーパーが配られる。
そこに、それぞれが3~5問ずつ持ち寄った問題を黙々と解いていくのだ。早押し機はまだなかった。夕方に始まり、全部で50問ほどの問題を行い、それぞれが何点とったかを発表して「ホノルルクラブ」の例会は終わる。その雰囲気に長戸勇人は衝撃を受けた。事実、あるテレビ番組が当時の例会を取材に来て「なんて暗いんだ!」と感想を漏らすほどストイックにクイズに向かい合っていた。

「ホノルルクラブ」は、1972年、囲碁棋士の小山鎮男を中心に創設された。小山は30歳になったとき、人生を振り返り「この30年間、自分は何もやってこなかったんじゃないか」と愕然とした。なにか爪痕を残したい。そう思って始めたのがクイズだった。「テレビに映る自分が見てみたい」と思ったのだ。当時、テレビに出られるといえば『のど自慢』かクイズ番組くらい。それだったら歌よりクイズだろうと、まずは『ベルトクイズQ&Q』に応募し、念願の出場を果たした。もっとも当時は生放送。ビデオデッキもなかったから「テレビに映る自分」を見ることはできなかったのだが。

知識には自信があったが、緊張で答えが出てこない。これではダメだと勉強をし直し、リベンジとして『クイズグランプリ』に出場。優勝しヨーロッパ旅行に行くことができた。「こんなのでヨーロッパ旅行に行けちゃうんだ!」と味をしめ、『アップダウンクイズ』にも出場。圧倒的な強さで優勝し、ハワイ旅行を獲得した。

小山は『アップダウンクイズ』や『クイズグランプリ』の優勝者旅行の名簿に載っていた人たちに片っ端から連絡を取った。
クイズサークルを作りたいと思ったのだ。

小山にはある構想があった。その頃は、視聴者参加型のクイズ番組が真っ盛り。けれど、本来、クイズはテレビだけでやるものではない。小山のいる囲碁の世界もアマチュアからプロまでシステムが整備されている。クイズ界も同じように競技化されていくはず。近い将来、「クイズ日本選手権」のような大会を開催したい。その母体になるものを作りたかったのだ。
いまでは当たり前となった「競技クイズ」を小山は40年以上前から構想していたのだ。

公民館を借りて行われた第1回の例会に集まったのは、7人。
優勝旅行先の「ホノルル」を冠した日本最古のクイズサークルの歴史はこうして始まった。なお、厳密に言えば、ホノルルクラブ以前にも「『二十の扉』友の会」や「日本クイズクラブ」などが存在したようだが、現存するサークルでは間違いなく最古のものだ。

小山の競技化の思いとは裏腹に、クイズ番組全盛ゆえ、「クイズ番組に勝ちたい」という人たちが多く集まるようになっていった。当初7人だったメンバーは、最盛期には200人を超え、名実ともに「日本一」のクイズサークルとなり注目を浴びた。一方で、会員たちのあまりの高い実績に「クイズ番組荒らし」「賞金稼ぎ」などと敵視に近い視線を向けられることも少なくなかった。

小山は本業が忙しくなると会長の座を退き、1979年から村田栄子が会長を引き継いだ。
村田は『クイズタイムショック』『アップダウンクイズ』『パネルクイズアタック25』『クイズダービー』など数多くの優勝経験を持ち、現在に至るまでホノルルクラブの会長を務め、数多くのクイズプレイヤーを支えてきた「クイズの母」だ。

運営資金は一銭もなかった。あるのは会員名簿とわずかな切手だけ。それでもとにかく会報を発行しなければいけない、と、新聞や雑誌の投書欄に投稿して採用された自身のギャラを全部ホノルルクラブの運営につぎ込んだ。

例会は毎月第3土曜日。
長戸と青木紀美江は毎月のように参加した。

会報には前回行われた例会の成績上位者3名は名前が掲載される。参加者は歴戦の強者ばかり。長戸や青木はまったく歯が立たなかった。いつも最下位かブービーが定位置。圧倒的に知識量が違っていた。まったく通用しないんじゃないか。力の差を痛感した。
出題された問題と出題者からのコメントにその問題の正解者数も詳しく掲載され、1人だけ正解の場合は、そこに名前も付記される。またコメントにボケ解答を拾ってくれることもあった。全体の成績では敵わない。だから、長戸はそれを狙った。そうやって、会報のどこかに名前が載ることが大きなモチベーションだった。

「あ、広瀬さんや……」
ある月の例会では、『アップダウンクイズ』や『パネルクイズアタック25』で優勝していた広瀬祐子も見つけた。彼女は長戸にとって“アイドル”だった。ようやく周囲を冷静に見ることができるようになったのだ。最初は小さくなって、先輩たちに話しかけることすらできなかったが、3~4ヶ月経つと少しずつ話せるようになっていく。その最初の武器が「昭和40年生まれ」ということだった。

「若いね。いくつ?」
「昭和40年生まれの19歳です」
「へえ、遂に40年生まれがクイズをやるのかあ。時代も変わったなぁ」

当時の“大人”たちにとって、「昭和40年」というのはひとつの大きな境目のようなものだった。もし、長戸が「昭和39年生まれ」だったら、それほど印象に残らなかったかもしれない。たとえば、現在であれば、「19歳」と言われても、10代の若い人が入ってきたなというくらいの印象だろうが、「2000年生まれ」と言われるとインパクトは絶大だ。少し前なら「平成生まれ」という言葉に感じたものに近いのだろう。「昭和40年生まれ」という“肩書”は、ひとつ時代を越えた感覚を与えたのだ。

そこから、長戸は「小僧」のように先輩たちに可愛がられるようになった。
村田とは帰り道の方向が一緒だったこともあり、よく車に乗せてもらった。その道中で聞く知られざるクイズの世界の話は刺激的なものばかりだった。これまで接したことのない“大人”の世界は、長戸の視野を一気に広げた。

メンバーは、サークルの“仲間”というより、“一匹狼”の集まりという印象だった。バイタリティにあふれ、互いにバチバチとライバル心を燃やしている。その姿は、とてもカッコよかったが、長戸にはなんだか、違和感のようなものがあった。
徐々にクイズ界の人間関係の複雑さや、嫌な部分を知ることになる。長戸は落ち込んだ。純粋な“クイズの子”だった長戸には、それが許せなかった。

ここはオレがいるべき世界じゃないのかもしれない。こんな世界にいてもええんか。
長戸は、ある月の土曜日の例会が終わってから、日曜日一日中、悩み抜いた。

もう辞めよう……。
初めて、クイズにかかわるのを辞めようかとまで真剣に考えた。

「違う、そうやない」
ふとある思いが芽生えた。

「自分が新しい世界を作ればええんや」
自分が強くなって、自分の周りに理想のクイズの世界を作る。長戸はそう決心した。強くなるために邁進するしかないんだ、と。

ホノルルクラブなどで鍛え、やってきた『第8回ウルトラクイズ』。
夜が明け始めると、後楽園球場周辺にはみるみると人の山ができてきた。
みんなが高揚している。
いよいよ夢にまで見た瞬間が訪れようとしていた。

(第11回に続く)

著者 てれびのスキマ(戸部田誠)
1978年福岡県生まれ。お笑い、格闘技、ドラマなどを愛する、テレビっ子ライター。「週刊文春」「水道橋博士のメルマ旬報」などで連載中。主な著書に『タモリ学』『コントに捧げた内村光良の怒り』『1989年のテレビっ子』『笑福亭鶴瓶論』『全部やれ。日本テレビ えげつない勝ち方』がある。
Return Top