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ノンフィクションクイズ小説『ボルティモアへ』第13回「立命オープン」

伝説の『第13回アメリカ横断ウルトラクイズ』に集う若きクイズ王たちの青春を、気鋭のライター「てれびのスキマ」(戸部田誠)が描く話題沸騰のノンフィクション小説『ボルティモアへ』。いよいよ舞台は立命館大学へ!

『ボルティモアへ』目次

第0回 連載開始予告
第1回 消えた天才
第2回 『ウルトラクイズ』の衝撃
第3回 レスポンスタイム
第4回 宝の地図
第5回 前哨戦
第6回 ハチマキ娘
第7回 ニューヨークで踊る男
第8回 奇跡の会合
第9回 クイズサークル
第10回 昭和40年男
第11回 マイコンボーイ
第12回 伝説のテストマッチ
第13回 立命オープン
第14回 coming soon…
(以降、毎週木曜日公開予定)



Ⅳ 長戸勇人、20歳。革命せよ

立命オープン

1984年11月4日。
立命館大学・衣笠キャンパスの以学館前広場に少しずつ人が集まり始めた。

「それでは、第1部の大学対抗クイズを始めます!」
稲川良夫は、「これが最後の晴れ舞台になるんだなあ」と一抹の寂しさを感じながら、集まった観客に向けて言った。

立命館大学の学祭。午後の半日を使って、立命館大学クイズソサエティー「RUQS」によるクイズ大会「クイズ立命オープン」が開催されたのだ。その第1部として企画されたのが、京都の各大学のクイズサークルを集めた大学対抗戦。
集まったのはRUQSの他は、関西の大学でもっとも歴史が古いと言われている京都産業大学のクイズ研と、加藤実が所属する京都大学クイズ研「ZZZ」だった。

ルールはそれぞれの大学が4人を選抜して出し、2人1組の2組を作って三つ巴戦を行う。たとえば、京大と立命が対戦しているときは、京産大が問題を出す。公正を期するため、それぞれの大学が事前に準備した100問の問題のうち、対戦するチームが指定する番号の問題を30問出題するという本格的な形式だった。

ステージ上には、この日のために作られた早押し機が並んでいる。RUQSメンバーの工業高校教師の父親が作ってくれたもので、のちに「玉屋」と呼ばれることになるRUQSの初代早押し機だった。この早押し機が4人用だったため、2人対2人の巴戦というルールにしたのだ。

RUQSは京都産業大学に勝利するが、京大ZZZには完敗した。
もちろん、ZZZ代表のひとりが加藤実だったからだ。

その2年前の1982年の冬、稲川は『史上最大の敗者復活戦』に出場した。
子供の頃から知的好奇心が旺盛で、図鑑や百科事典を読み漁っていた稲川は中学3年生の時に放送された『第1回アメリカ横断ウルトラクイズ』に心を奪われて、この番組に出たいと思うようになった。高校を卒業し、浪人中だった時に初めて第5回の『ウルトラクイズ』に出場するも早々に敗退。大学に入った後はクイズをやるつもりはまったくなかった。政治家や司法の世界に憧れて法律系のサークルに入ったが長続きせず、導かれるようにクイズの世界に戻ってきたのだ。

しかし、喜び勇んで出場した『史上最大の敗者復活戦』では、瀬間同様、最初の1問目であえなく惨敗。
「これはちょっと、ひとりでやってたらどうしようもないな……」

そんなとき思い浮かんだのが、少し前に行った京都大学の学園祭で見た光景だった。
そこで「おもしろクイズ・イン京都」というイベントが開催されていたのだ。それを主催していたのが「ZZZ」という名のクイズ研究会だった。

「ああ、クイズ研究会なんてものがあるのか」
その時、稲川の頭の片隅に刻まれた。さらにノートルダム女学院の学祭でも京都産業大学のクイズ研究会のロゴが入ったジャンパーを着たスタッフがイベントを手伝っていた。

立命館にもクイズ研究会はないのだろうか。そういえば、以前そんなチラシを見たことがあった。けれど、大学に問い合わせをしてみても、そんなサークルは登録されていないという。だったら自分で作るしかない。稲川は法学部のクラスメイト5人に声をかけた。

「なあ、クイズサークルを作ってみない?」
「クイズサークル?」
「ほら、サークル作ったら、女の子も入ってくるかもしれないやん」

こうしてRUQSは6人で結成された。名前は既にあるかもしれないクイズ研究会と同じにならないようにするため、立命館大学クイズソサエティー(Ritsumeikan University Quiz Society)にした。通称は頭文字を取って「RUQS」である。

「これなら格好良い『ルックス』にもつながるから、こりゃいけるわ!」
稲川は自画自賛したが、後にメンバーから「普通に読んだら『ラックス』やろ」とツッコまれることになる。
ちなみに、「女の子が入ってくる」という稲川の“下心”は、稲川の在学中は結局実現しなかった。

稲川はサークルの設立趣意書を持って、学芸部を訪れた。
担当者は書類にサッと目を通すと冷たく言った。
「これは知識だから学術のほうですね」

立命館大学の文化系サークルは当時、「学術部」と「学芸部」というふたつの組織に分かれていた。音楽系サークルなども加盟していた学芸部のほうが、柔らかいイメージがあったから、こちらに持って行ったが、門前払いだった。言われるまま稲川は、学術部に向かった。

「これは学芸だね」
たらい回しだ。「いや、学芸に行ったらこっちだって言われたんです」と抗議すると、今度は趣意書の内容に難癖をつけ始めた。
「この趣意書には『平和と民主主義を守る』という一項が書かれてないじゃないか」

そんなこと書くまでもないじゃないか! クイズが平和と民主主義を脅かすわけないだろ!
彼らは端から認めるつもりなんてなかったのだ。

憤懣やるかたない思いを抱えながらも、粘り強く交渉を重ねた稲川は、学術・学芸部よりも上部組織である中央事務局預かりとなった。
ところが「あまりすぐ認めるとサークルの乱立を招くおそれがあるので、しばらく様子を見ます。その間、活動実績を報告してください」と言われてしまう。
立命館大学のサークルには「公認サークル」「同好会」「任意団体」という3つのカテゴリーがあったが、一番下の任意団体にもなれなかった。そのため、部室はおろか、教室さえ借りられない状況でのスタートとなった。

翌年には任意団体に認められたものの、稲川自身が思わぬ事態を招くことになる。
当時、関西のテレビでは、『アップダウンクイズ』、『クイズタイムショック』、『パネルクイズアタック25』、『三枝の国盗りゲーム』、『100万円クイズハンター』など8番組もの視聴者参加型クイズ番組がレギュラー放送されていた。

「テレビに出たら人生が変わるんじゃないか」
そう思った稲川は次々と応募のハガキを出していた。初めて予選を突破して出場することになったのは毎日放送の『クイズMr.ロンリー』だった。解答者は男性のみで、女性出題者から出された問題を答えるというもの。1問でも間違えるとそこで失格となり、正解数に応じた賞金を獲得(パーフェクトは12問正解で50万円)するといったルールだった。
そこで稲川はRUQSをアピールする。しかし、1問目で敗退。

「クイズサークルですよ。会長ですよ。どうしますか?」
司会の桂文珍がいやらしく追及する。すると思わず稲川は言ってしまう。
「ボク、辞任します」
その後、半年間続く「RUQS大空位時代」に突入するのだ。ちなみに、稲川は1問目敗退者を集めた「みじめ大会」で準優勝し、自己判断で会長に復帰した。

そんなRUQSだったが、稲川が3回生になった84年の新入生の入会はたったひとりだけ。しかも、夏頃には4人いた2回生が全員辞め、1回生の新人も来なくなり、3回生8人だけになってしまった。
「これは未来がないな……」
稲川は潮時だと思い、ひとつの決断をくだした。
「学祭でクイズ大会をやって、それを花道にRUQSを解散しよう」

そこで企画されたのが「クイズ立命オープン」だったのだ。
大学対抗戦の熱気が呼び水となり、以学館前広場にはいつしか大勢の人の波が出来ていた。
第2部は一般参加のオープンクイズ。
数百人の来場者がその場で参加し、○×クイズから始まり、さまざまなクイズ形式を行い、決勝では早押しクイズで雌雄を決したクイズ大会は白熱し、大盛況となった。

「これは、もしかしたらいけるかもしれない……」
会場の盛り上がりを感じながら稲川は思った。また、仕切り直して、会員を募集してみよう。再び情熱がよみがえってきた。その後、「立命オープン」は長きにわたり名物イベントとして続くことになる。

そして、ここでも優勝したのはやはり、加藤実だった。
ずば抜けていたのだ。
そんな加藤からある日、「うちの寮に遊びに来ませんか?」と稲川は誘われた。

「会わせたいヤツがいるんです。今度の日曜日、昔なじみの連れが僕の寮に来るので」

もちろんそれは、長戸勇人のことだった。

(第14回に続く)

著者 てれびのスキマ(戸部田誠)
1978年福岡県生まれ。お笑い、格闘技、ドラマなどを愛する、テレビっ子ライター。「週刊文春」「水道橋博士のメルマ旬報」などで連載中。主な著書に『タモリ学』『コントに捧げた内村光良の怒り』『1989年のテレビっ子』『笑福亭鶴瓶論』『全部やれ。日本テレビ えげつない勝ち方』がある。
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