Subscribe / Share

Toggle

column

ノンフィクションクイズ小説『ボルティモアへ』第17回「地獄の細道」

伝説の『第13回アメリカ横断ウルトラクイズ』に集う若きクイズ王たちの青春を、気鋭のライター「てれびのスキマ」(戸部田誠)が描く話題沸騰のノンフィクション小説『ボルティモアへ』。第2部、東西激突編スタート!

『ボルティモアへ』目次

第0回 連載開始予告
第1回 消えた天才
第2回 『ウルトラクイズ』の衝撃
第3回 レスポンスタイム
第4回 宝の地図
第5回 前哨戦
第6回 ハチマキ娘
第7回 ニューヨークで踊る男
第8回 奇跡の会合
第9回 クイズサークル
第10回 昭和40年男
第11回 マイコンボーイ
第12回 伝説のテストマッチ
第13回 立命オープン
第14回 RUQS革命
第15回 聖地 フラワー
第16回 トリビアル・パスート
第17回 地獄の細道
第18回 coming soon…
(以降、毎週木曜日公開予定)



Ⅴ 長戸勇人、21歳。西の旋風

地獄の細道

山口県下関市の綾羅木海岸の砂浜にたくさんの紙がばらまかれた。その紙にはクイズが書いてある。その紙を求め、十数人の高校生たちが砂に足を取られながら走っている。
もちろん『ウルトラクイズ』の「バラマキクイズ」を模したものだ。
それが終わると場所を神社の境内に移し早押しクイズ対決が行われた。
テレビ番組の企画ではない。

高校生の秋利美紀雄が同級生たちと作った「ウルトラクイズ研究会」の活動だ。早押しボタンも「ピンポン!」などと音が出るものではなく、自作した赤いランプがつくだけの簡易的なものだったが、当時の高校生の活動としては、かなり本格的で大掛かりなものだ。それを企画したのはもちろん秋利だった。

人並みにクイズ番組に親しんでいた秋利のクイズ熱を劇的に高めたのはやはり『ウルトラクイズ』だった。「第1回」はなんともなしに見ていたが、「第2回」で一気にのめり込んだ。

「一緒にニューヨークに出ようぜ」
「お前が準優勝で、俺が優勝な!」

親友とそんな話をして笑いあった。その親友は『クイズグランプリ』のクイズ本を既刊の5冊すべて揃えていた。当時、視聴者参加型のクイズ番組は真っ盛り。それに併せて、クイズ番組ごとにクイズの問題集が出版されていたのだ。クイズ本の存在を知った秋利も買い集め、2人でクイズ本から問題を出し合いながら競い合っていた。

2人は塾も一緒だった。松下村塾のイメージが残るような個人塾で、市内有数の進学率を誇る名門。厳しいことでも有名だった。だから、休むことなど考えられなかった。けれど、秋にはあの番組が放送される。2人にとって史上最大の木曜日がやってくるのだ。

「やっぱ見たいよな」
まだビデオデッキも持っていなかった。だから、カセットテープで録音したりしていた。「決勝の日だけは塾を休ませてくれ」と親をなんとか説得し、仮病で塾を休んだ。きっと塾の先生もわかっていただろう。何しろ、いつもクイズ、クイズと夢中になっていた2人の席がその日だけ揃って空いているのだから。秋利は高校に進学すると、彼と一緒に「ウルトラクイズ研究会」を作ったのだ。

北川宣浩が書いた『TVクイズ大研究』が出版されることを新聞広告で知れば、すぐに書店で予約をし、取り寄せてもらった。自分が日本一この本を読んでいるんじゃないかと思うほど繰り返し読み、一時は一言一句ほとんど暗記したほどだった。もちろん、クイズ番組を見ながらスコアをつけたり、新聞を切り抜いたり、この本に書かれているクイズの勉強方法はすべて実践した。実行したのは勉強方法だけではない。本書には「クイズスターにファンレターを出すには」という項目もあった。それを読んで、すぐに秋利は北川に手紙を書いた。返事が来たのは飛び上がるほど嬉しかった。だから北川だけで終わらなかった。

『アタック25』で高校生でありながら大人に混じって一般の大会に出場し優勝した1つ年上の相原一善を見て衝撃を受けた。自分と同じように“クイズをやっている”人に違いないと思い、仙台に住んでいた相原に手紙を書いた。北川本で示されていたとおり、手紙は番組宛てに「お手数ですが先日の放送に出ておられた相原さんに同封の手紙を送っていただけませんか」と書き添えて送った。スタッフもそれを無下にせず転送してくれたのだろう、数日後、相原から返事が来て、彼らの交流が始まった。その後、慶應大学に進学した相原は、のちにRUQS勢とも知り合い、“東京の案内人”として東西の学生クイズ界をつなぐ重要な役割を担っていくことになる。

大学は自分と同じくらいの学力なら、場所柄、九州大学に進学するのが一般的だった。「ウルトラクイズ研究会」の親友も九州大学に合格した。だが、秋利は名古屋大学を選んだ。その動機のひとつには、東京にも大阪にも行きやすいということがあった。そう、クイズ番組に出るためだ。当時の視聴者参加番組は東京だけではなく、大阪のテレビ局制作のものも少なくなかった。それらに少しでも出やすくするために名古屋を選んだのだ。

そして、念願の『ウルトラクイズ』の季節がやってくる。初めて参加したのは18歳の時。長戸らと同じく『第8回』だ。

後楽園球場での予選の○×クイズでは、北川宣浩と道蔦岳史が行動をともにしているのを見つけ、彼らの後を追った。ある問題で北川と道蔦が分かれると、道蔦のほうについて行った。なんだか道蔦に後光がさしているように見えたのだ。そうしているうちにあれよあれよという間に勝ち進んだ。とにかく暑かった。汗がしたたり落ちる。
予選の終盤、紙コップが配られる。そこに入った冷たい水がたまらなく美味しく生き返るようだった。

そうして秋利は、初めての挑戦でいきなり予選を突破したのだ。
「これで最年少優勝だ!」
予選突破した約100人を見渡して秋利は確信した。自分ぐらい若いときから真剣にクイズに取り組んでいる人はいないはずだ。負ける気がしない、と。高校時代から2次予選のじゃんけんの練習も繰り返し、自分なりの“必勝法”も編み出していた。実際、じゃんけんはストレートで勝利。あとは、最大の難関である「どろんこクイズ」さえ抜ければ優勝だ。
果たして、秋利は泥に飛び込み夢破れてしまうのだ。

一発勝負の二択問題は運の要素が大きく鬼門だ。たとえ実力者でも問題との相性次第で負けてしまうことが少なくない。早稲田大学クイズ研の幹事長・原誠一郎と副幹事長の高橋武人も残っていたが、高橋が泥をかぶったのに続き、原も「幹事長だよ、幹事長だよ、キミは!」と福留功男に言われながら、泥に落ちていった。
そんな“泥仲間”の原、高橋と秋利は仲良くなった。

『ウルトラクイズ』にはスタジオ収録部分がある。本編の合間に総合司会の高島忠夫らが旅の経過をわかりやすく解説し、盛り上げるためのものだ。その収録には番組出場者も参加できた。秋利がスタジオに行くと原たちもいた。

「名大にクイズ研がないなら、作ればいいじゃん」
原たちに言われ、それもそうだと思った。ちょうどそこには同じ名古屋大学の4年生で予選敗退した西田好幸がいて、秋利に「俺も名大なんだ」と声をかけてきた。
「一緒にクイズ研を作りましょう!」

秋利は名古屋大学に帰るとすぐに、原たちのアドバイスに従ってサークル設立に向け動き出した。
秋利は大学から立て看板をひとつ借りて、見覚えのある絵を描いた。それは北川宣浩の『TVクイズ大研究』の表紙に描かれたキャラクターだった。そこに「クイズ研究会・会員募集!」と書き加えたのだ。クイズを好きな人がこの絵を見れば、一発で“クイズをやっている”サークルだとわかるはずだ、と。

その思惑は当たった。
入会希望者はすぐにあらわれた。そのうちの1人は大石禎だった。のちに『第15回ウルトラクイズ』で第10チェックポイントのドミニカまで勝ち進んだ男だ。大石の手には『TVクイズ大研究』が握られていた。
84年12月、名古屋大学クイズ研究会は8名ほどのメンバーで活動を開始した。もちろん初代会長は秋利美紀雄だ。

地獄の細道――。
4月になると名古屋大学のキャンパスにそう呼ばれる“道”ができる。各サークルが新入生を勧誘しようと並ぶのだ。もちろん、秋利率いるクイズ研究会もできたばかりのサークルを少しでも大きくしようと勧誘に励んでいた。各サークルが取り合うように新入生たちに声をかけ、手を引っ張っていく。

そんな喧騒の中で1人の男が数多の勧誘の手を飄々とかわしながら、「あった、あった」と一直線でクイズ研のほうに向かってきたように秋利には見えた。最初からクイズ研に入る目的で来てくれたんだと。けれど、実際は違っていた。彼はクイズ研があることなど知らなかった。特にどんなサークルに入るといった目的もなく、ただただ歩いていた。その時、ふと目に入ったのがクイズ研だったのだ。クイズは大好きだった。他に入りたいと思えるようなサークルはなかった。だから、サークルに入るならここがいい。それが秋利には迷いなくやってきたように見えたのだろう。

「あ、仲野隆也と言います。クイズ研に入ってみたいんですけど」

やっぱり来た! と秋利は思った。実は秋利は仲野を既に知っていた。仲野は高校時代、『クイズタイムショック』の高校生大会で優勝しているのだ。同い年だった秋利は彼の存在が気になっていた。番組では、三重に住んでいると紹介されていた。だったら、程近い名古屋大学に進学してもおかしくない、と思っていたのだ。その予感が当たり、1浪した仲野は名古屋大学に入学し、クイズ研にやってきた。
この男の加入が、のちに名大クイズ研を「3択の名大」と全国に轟かせることになる原動力となるのだ。

(第18回に続く)

著者 てれびのスキマ(戸部田誠)
1978年福岡県生まれ。お笑い、格闘技、ドラマなどを愛する、テレビっ子ライター。「週刊文春」「水道橋博士のメルマ旬報」などで連載中。主な著書に『タモリ学』『コントに捧げた内村光良の怒り』『1989年のテレビっ子』『笑福亭鶴瓶論』『全部やれ。日本テレビ えげつない勝ち方』がある。
Return Top