伝説の『第13回アメリカ横断ウルトラクイズ』に集う若きクイズ王たちの青春を、気鋭のライター「てれびのスキマ」(戸部田誠)が描く話題沸騰のノンフィクション小説『ボルティモアへ』。時代は1987年、RUQS怒涛の快進撃が始まる!
『ボルティモアへ』目次
第0回 連載開始予告
第1回 消えた天才
第2回 『ウルトラクイズ』の衝撃
第3回 レスポンスタイム
第4回 宝の地図
第5回 前哨戦
第6回 ハチマキ娘
第7回 ニューヨークで踊る男
第8回 奇跡の会合
第9回 クイズサークル
第10回 昭和40年男
第11回 マイコンボーイ
第12回 伝説のテストマッチ
第13回 立命オープン
第14回 RUQS革命
第15回 聖地 フラワー
第16回 トリビアル・パスート
第17回 地獄の細道
第18回 クイズ列車
第19回 ポロロッカ
第20回 エンドレスナイト
第21回 大阪大学“RUQS”学部
第22回 coming soon…
(以降、毎週木曜日公開予定)
Ⅵ 長戸勇人、22歳。挫折
大阪大学“RUQS”学部
1986年12月、永田喜彰はホノルルクラブの合宿に急遽参加したあと、神戸の自宅に戻った。それから少し経ったある日、自宅に小包が届いた。ずっしりとした重みがあった。
なんやろう? 宛名を見ると合宿で出会った男の名が書かれていた。
長戸勇人である。
封を空けてみると、そこにはぎっしりと冊子が入っていた。
表紙には「Z-TON」「ふなふな」「かつお節」「涙ください想い出あげる」など脈絡のないタイトルが印刷され、その傍らに「RUQS会報 Vol.○」と書かれている。長戸は合宿で知り合い意気投合した永田にRUQSの会報を送ったのだ。ちなみにRUQSの会報は当時、その号の編集担当者がタイトル含めた表紙デザインを自由に決めていた。
その内容の濃さに永田は驚いた。稲川良夫の細かくぎっしり書かれた理論的な文章、ユーモアあふれる長戸勇人の筆致、各号の会員たちの個性あふれる記事と文字、読み物として抜群に面白かった。ホノルルクラブの合宿とその帰りの電車で、大学のクイズ研の存在を初めてハッキリ認識したが、自分が通う大阪大学にクイズ研がなかったこともあり、自分とは縁遠い世界だと思っていた。別の大学のサークルに入る、という発想自体がなかった。
けれど一方で、クイズサークルには強く惹かれ始めていた。『第10回ウルトラクイズ』で森田敬和や西沢泰生といったクイズのトッププレイヤーたちと出会ったこと、ホノルルクラブの合宿での体験、そしてRUQSや名古屋大学クイズ研のメンバーといった同世代の友人ができたこと……。もしかしたら、自分が探し求めていたものはクイズの世界にあるかもしれない、と思い始めていた。
『第10回ウルトラクイズ』の予選を突破したといっても、永田喜彰はいわゆる「クイズの人」ではなかった。永田にとってクイズは数多くある遊びのひとつだった。
特撮ドラマからお笑い番組、スポーツ中継、様々なジャンルの番組を見て育った。クイズ番組もそのひとつにすぎなかった。
『クイズグランプリ』の「小学生大会」に小学5年生の頃、応募のハガキを出したが、「クイズ番組に出たい」というよりも、「テレビに出たい」という意識が強かった。その予選に敗れた悔しさよりも、予選に訪れた関西テレビの玄関で、月亭八方を見かけた嬉しさのほうが断然大きかった。『クイズ100人に聞きました』の予選も家族で参加した。通常のクイズ番組のようにペーパークイズの予選ではなく、本番さながらに別の家族との対戦形式だったため驚いた。参加賞も豪華で、予選を通らなくても大好きなテレビ番組に参加できた気分になれる。こんなに“おいしい”遊びはないと思った。歌番組だろうが恋愛系のバラエティだろうがテレビに出れるなら何でも良かったが、永田にとってはクイズ番組が一番ハードルが低かったのだ。
小学校や中学校ではかるたクラブに在籍。ちなみにかるたや百人一首が得意なクイズプレイヤーは少なくない。長戸もそのひとりだ。百人一首では「決まり字」と呼ばれるものがある。上の句が「あ」で始まる歌は複数あるが、「あい」で始まる歌は1首しかない。その瞬間、取るべき札が確定する。早押しクイズの「ポイント」の考え方と似ているのだ。他にも永田は将棋や鉱石ラジオの電子工作など様々な遊びに興味を持って手を出した。
大学入試の頃になると、当時「マイコン」などと言われていたパソコンが流行の兆しを見せていた。名機「PC-8000」シリーズが発売され、大学に合格したらそれを買ってもらう約束を親として、大阪大学基礎工学部に合格した。だが、講義にはあまり出席せず単位取得はまったく進まなかった。大学近くの1階はゲームセンター、2階は雀荘という大学近くの建物に入り浸り、怠惰な学生生活を送ってしまっていたのだ。
『アタック25』『国盗りゲーム』『アップダウンクイズ』など手当り次第応募したが、やはり「対策」をしていなかったこともあり、なかなかペーパークイズの予選を通ることができなかった。
大学時代、何より明け暮れたのは「旅」だ。
近場にはバイクを飛ばし、乗り鉄らしく電車で遠出した。
『ウルトラクイズ』には、『第5回」から毎回参加したが、それは北海道や東北旅行の“ついで”だった。旅行の帰りに後楽園球場に“寄った”のだ。
彼が予選を突破した『『第10回」の年には、既に大学“6回生”になっていた。
“遊びの達人”だった永田は、自分が本当にハマれる遊びを探すために“旅”をしていたのかも知れない。
永田が長戸にRUQSの会報を送ってもらったお礼の連絡をすると、長戸は自分も所属している「関クイ」こと「関西クイズ愛好会」に永田を誘った。主に大阪で活動している社会人クイズサークルだ。いきなり京都の大学に来てもらうより、大阪のほうが神戸から行きやすいと思ったからだ。
その誘いに永田は乗った。
この時に限らず、いつだって永田はそうだった。インターネットなどない時代。面白そうな情報は人づてに偶然にもたらされる。だから逡巡してなどいられなかった。「おっ!」と少しでも琴線に触れたものには、まず動く。それが信条だった。たまたま入った情報を、“たまたま”で終わらせるか、それを“つながり”にできるかは自分の行動如何にかかっている。無駄足になることも少なくない。けれど、何が起こるかは行かなくてはわからない。そんな行動原理が、いつしかクイズ界で「自由人」「神出鬼没」などと呼ばれるようになっていったのだ。
「RUQSに入ってくれませんか?」
関クイの例会で何度か一緒になるうちに、長戸は永田にRUQSに入って欲しいと頭を下げた。
長戸は永田のようなピースがRUQSにどうしても必要だと感じていたのだ。年上でクイズの地力があり、周りを引き上げてくれる存在だと思った。
こうして永田はRUQSに加入した。
金曜日に神戸から京都までバイクを走らせ例会に参加し、そのまま徹クイ。土・日は長戸の家に泊まり、ここでもクイズに興じ、月曜日の例会に参加してから神戸に帰るという日々が始まった。RUQSに入り浸り、永田のクイズの実力はめきめき上昇していった。
遂に永田は本当に夢中になれる“遊び”を見つけたのだ。
「大阪大学“RUQS”学部やな」
そう笑う永田は、大学7回生になっても卒業の目処はまったくたっていなかった。
(第22回に続く)
1978年福岡県生まれ。お笑い、格闘技、ドラマなどを愛する、テレビっ子ライター。「週刊文春」「水道橋博士のメルマ旬報」などで連載中。主な著書に『タモリ学』『コントに捧げた内村光良の怒り』『1989年のテレビっ子』『笑福亭鶴瓶論』『全部やれ。日本テレビ えげつない勝ち方』がある。