伝説の『第13回アメリカ横断ウルトラクイズ』に集う若きクイズ王たちの青春を、気鋭のライター「てれびのスキマ」(戸部田誠)が描く話題沸騰のノンフィクション小説『ボルティモアへ』。第2部、東西激突編スタート!
『ボルティモアへ』目次
第0回 連載開始予告
第1回 消えた天才
第2回 『ウルトラクイズ』の衝撃
第3回 レスポンスタイム
第4回 宝の地図
第5回 前哨戦
第6回 ハチマキ娘
第7回 ニューヨークで踊る男
第8回 奇跡の会合
第9回 クイズサークル
第10回 昭和40年男
第11回 マイコンボーイ
第12回 伝説のテストマッチ
第13回 立命オープン
第14回 RUQS革命
第15回 聖地 フラワー
第16回 トリビアル・パスート
第17回 coming soon…
(以降、毎週木曜日公開予定)
Ⅴ 長戸勇人、21歳。西の旋風
トリビアル・パスート
「なんやねん! おかしいやろ!」
長戸勇人は憤慨していた。
関東で「“学生クイズ日本一”を決める」と銘打った大会が行われていることを知ったのだ。
「オレら関西勢なしで、何が日本一やねん!」
学生クイズ王決定戦『マン・オブ・ザ・イヤー』(当初の名称は『関東学生クイズ選手権』)は83年12月から始まった。関東の大学クイズサークルが集まった「関東学生クイズ連盟」の初代会長である早稲田大学の神谷昌孝の発案だった。元々は関東のクイズ研の交流の場といった位置づけだったが、この大会の存在を知った長戸ら立命館大学「RUQS」が86年より参戦を表明。関西勢にも門戸が開かれた。これにより、関東学生クイズ連盟も日本学生クイズ連盟となり、名実ともに「学生クイズ王決定戦」と呼べる大会になったのだ。
彼らは大垣から東京を結ぶ「大垣夜行」の先頭車両に乗り込んだ。
遂に関東の連中と雌雄を決する時が来た。絶対に負けたくない。列車に揺れながら、高揚感でいっぱいだった。
「クイズをしに行く」。そのたったひとつの目的のために、鈍行で約6時間近くの長旅だ。
列車は、名古屋駅で停車した。
扉が開くと2人の男が入ってきた。
「おお、こっちこっち」
稲川が2人を手招きする。
「紹介するよ」
紹介されるまでもなかった。あいつらが噂のヤツらか。長戸はのちにライバルとなる2人の様子を品定めするかのように見つめていた。
「名古屋大学クイズ研究会の秋利美紀雄と仲野隆也だ」
のちに秋利は『第13回ウルトラクイズ』の準決勝「ボルティモア」で長戸と激闘を繰り広げる男、そして仲野もまた、長戸らと“クイズの盟友”としてその後長きにわたり研鑽を積みあうことになる男だ。長戸との運命の出会いだ。
「スゴい奴らがいた!」
そう長戸たちに興奮して伝えたのが加藤だった。
「名古屋大のクイズ研が『トリビアル・パスート』の大会を席巻してたんだ!」
86年3月、アメリカでブームを巻き起こしていたクイズを使ったボードゲーム「トリビアル・パスート」の日本大会が日刊スポーツ主催で開催された。春休みで千葉に帰省していた加藤は東京グランドホテルで行われた大会を見に行ったのだ。
「トリビアル・パスート」はサイコロを振って止まったマスに指定されたジャンルのクイズに挑戦し、正解なら再びサイコロを振ってコマを進めることができるというすごろくにクイズを組み込んだようなゲーム。クイズ問題のジャンルは「地理」「娯楽」「歴史」「芸術」「科学」「趣味」の6つにわかれており、6000問に及ぶ。すべてのジャンルを制覇したら、「最終ゴール」を目指すことができるという形式だ。
この大会で圧倒的な強さを見せつけたのが秋利と仲野だった。
仲野は名古屋大学クイズ研の同僚と組んで優勝。秋利は旧知の仲だった慶應大学の相原一善と出場し準優勝。1位・2位を独占したのだ。
長戸はその名を聞いて、『クイズタイムショック』の高校生大会で優勝した仲野と、『第8回ウルトラクイズ』で自分と同い年でありながら予選突破し、どろんこクイズで泥をかぶって散った秋利であると気づくのに時間はかからなかった。
稲川はその年、大学5回生になり、いよいよ就職をしなければいけない時期が迫っていた。前年はマスコミ業界を受けたが全滅。今年は地元の岐阜周辺の企業に就職しようと考えていた。けれど、地元に帰ってクイズができなくなるのは寂しい。社会人クイズサークルも岐阜はおろか名古屋にもまともに活動しているところがないことがわかった。どうしようかと思案しているちょうどその時、加藤から名古屋大学クイズ研の話がもたらされたのだ。彼らと何か一緒にできないか。思い立ったらすぐ行動する稲川は、直ちに名古屋大学に連絡をとり、その次の週末には名古屋に向かっていた。
会員たちは4~5人くらいの小グループに分かれて座っていた。それぞれの机には『クイズグランプリ』や『ウルトラクイズ』など様々な番組のクイズ本が積み上げられている。そのどれもが、何度も読み返しボロボロになっている。その本からそのまま問題を読み上げ繰り返し繰り返しクイズをしていたのだ。
反復練習の結果、もはや問題文とその答えをすべて暗記している会員も少なくなかった。
RUQSでオリジナルの問題を作ることを重視していた稲川にとってそれは大きなカルチャーショックだった。
「まずは問題集を反復練習して、クイズの基礎力をつけることが大事なんです」
秋利にとって、既存のクイズ本の問題を暗記することは、当然のことだった。
高校時代、加藤実は将棋の原田泰夫九段の言葉を借りて長戸に言ったことがある。
「クイズ屋には3種類いる。普及型・コーチ型・選手型だ。長戸、お前は珍しく普及と選手、2種類できる」
それで言うと、秋利と仲野は間違いなく「コーチ型」だ。
実は、彼らはその実力ほどテレビ番組での実績を残しているとはいい難い。番組に応募し、予選は突破してもなぜか本番にはお呼びがかからなかったり、番組自体が終わってしまったりした。クイズプレイヤーとしては不遇の存在だった。一方で、彼らの“作品”ともいえる名大クイズ研のメンバーは多くのクイズ番組に出場し、優秀な成績を収めている。メンバーが出場したある日の『アタック25』では、番組で実際に出された約30問のうち19問が、秋利と仲野が対策で授けた予想問題と同じだったほどだ。
「え! 全部って6000問?」
驚く稲川に秋利は当たり前のように答えた。
「もちろん」
大会前、秋利と仲野は「どういう風に大会やると思う?」と話し合った。「わざわざこの大会のために新しいクイズカードを作ったりしないよな?」「そんなん絶対せんよな。てことはこれを全部覚えちゃったら勝ちやん」と。覚えていれば勝てるなら、覚えるのが当然というのが2人の考えだった。だが、簡単に全部覚えるといっても6000問もある。大抵の人の感覚では無理だと思ってしまう。けれど、2人は既にいくつものクイズ本のほとんどを覚えているのだ。難しいことではなかった。
「全部覚えてたんだから、優勝するの当たり前ですよね」
仲野は悪戯っぽく笑った。
「後から主催者にめちゃくちゃ呆れられましたよ。『これじゃあ、ただのすごろくじゃん!』って」
(第17回に続く)
1978年福岡県生まれ。お笑い、格闘技、ドラマなどを愛する、テレビっ子ライター。「週刊文春」「水道橋博士のメルマ旬報」などで連載中。主な著書に『タモリ学』『コントに捧げた内村光良の怒り』『1989年のテレビっ子』『笑福亭鶴瓶論』『全部やれ。日本テレビ えげつない勝ち方』がある。