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ノンフィクションクイズ小説『ボルティモアへ』第19回「ポロロッカ」

伝説の『第13回アメリカ横断ウルトラクイズ』に集う若きクイズ王たちの青春を、気鋭のライター「てれびのスキマ」(戸部田誠)が描く話題沸騰のノンフィクション小説『ボルティモアへ』。第2部、東西激突編スタート!

『ボルティモアへ』目次

第0回 連載開始予告
第1回 消えた天才
第2回 『ウルトラクイズ』の衝撃
第3回 レスポンスタイム
第4回 宝の地図
第5回 前哨戦
第6回 ハチマキ娘
第7回 ニューヨークで踊る男
第8回 奇跡の会合
第9回 クイズサークル
第10回 昭和40年男
第11回 マイコンボーイ
第12回 伝説のテストマッチ
第13回 立命オープン
第14回 RUQS革命
第15回 聖地 フラワー
第16回 トリビアル・パスート
第17回 地獄の細道
第18回 クイズ列車
第19回 ポロロッカ
第20回 coming soon…
(以降、毎週木曜日公開予定)



Ⅴ 長戸勇人、21歳。西の旋風

ポロロッカ

「ようこそ、第4回学生クイズ王決定戦『マン・オブ・ザ・イヤー』に!」
慶應大学三田校舎の一室に集まった200名近くの出場者の前に、大きな身体に大きな蝶ネクタイをつけた男があらわれた。
学生クイズ連盟の会長であり、早稲田大学クイズ研究会(WQSS)のエース・3年生の西村顕治である。今大会の企画、問題作成、司会を担当していた。

その日の早朝、長戸勇人らRUQS勢と名古屋大クイズ研の秋利美紀雄と仲野隆也たちは、一晩中、列車の中でクイズをしながら東京にたどり着くと、始発の時間まで東京駅の地下でまたクイズを楽しんだ。その後、長戸や秋利らの共通の知人でもあり、今回の大会にスタッフとして参加していた慶應大学の相原一善と合流し、「大会が始まるまで休んでいてくれ」と控室代わりの教室に案内された。しかし、彼らのやることは決まっていた。
もちろん、クイズだ。

「そろそろ、始まるよ」
相原に呼びに来られる頃には、クイズのやりすぎで、もはや疲労困憊。ヘトヘトの状態になってしまっていた――。

もともと『マン・オブ・ザ・イヤー』(通称『マンオブ』)は、1983年12月に始まった(当時の名称は『関東学生クイズ選手権』)。
前年に関東の大学クイズサークルを集めた「関東学生クイズ連盟(学連)」が発足され、その初代会長である早稲田大学の神谷昌孝が発案したものだ。神谷は大会を盛り上げるため、学連スタッフに名を連ねていた明治大学クイズ愛好会の湯村一哉に相談した。

「学生クイズ王を決めるって大会にしたいから、道蔦とか森田を呼べない?」

1981年の『第5回ウルトラクイズ』で機内ペーパークイズ1位を獲り「学生クイズ王」と称され注目を浴びた東京学芸大学の道蔦岳史と、のちに『第10回ウルトラクイズ』王者となる拓殖大学の森田敬和のことだ。2人とも『ウルトラクイズ』以外にも数々のクイズ番組に出演し、「クイズ荒らし」と名を馳せていた。けれど、どちらも大学のクイズサークルには入っていなかった。

大学のクイズサークルは、80年頃から各所で相次いで発足された。一般的に最古といわれているのは、のちにフジテレビに入社し『FNS1億2,000万人のクイズ王決定戦』の総合演出となる森英昭らが80年に設立した中央大学クイズ研といわれているが、それ以前にもあったという資料もあり定かではない。だが、いずれにせよ、80年以降、増えていったのは間違いがない。それに大きな影響を与えたのが、流行していた視聴者参加型のクイズ番組で、特に77年から始まった『ウルトラクイズ』の存在が大きかった。この番組に出ることを目標にした若者たちが集まってできていったのだ。

けれど、まだこの当時、大学のクイズ研の多くは、いわゆるイベントサークルとしての側面が大きかった。大学祭などでクイズイベントを開催するのが目的のサークルだ。81年に設立された早稲田大学クイズ研「WQSS」もそうだった。当初のサークル名「Cry Baby’s Egg」が神谷の行きつけのお店の名前からつけたというのもそれを物語っている。活動は「飲む・打つ・押す」という順。つまり酒を飲むことや麻雀を打つことのほうが、クイズより優先されていたのだ。

これは早稲田大学に限った話ではない。当時、クイズ番組の出場者は社会人が一般的。だから道蔦や森田のような「学生クイズ荒らし」と呼ばれるような学生クイズプレイヤーは、大学のクイズ研ではなく、「ホノルルクラブ」のような社会人クイズサークルで研鑽を積んでいた。

たとえば、そのひとつに「大木塾」と呼ばれる集まりがあった。関東の重鎮・大木一美が有望な若手プレイヤーに声をかけ、大木邸や、湯村一哉の家に集まり、夜通しクイズをする「徹クイ」を行っていた。森田たちはこの塾の常連だった。当時、大木塾では8端子の早押し機を使っていた。それはつまり「選ばれし8人しか大木塾に参加できない」ことを意味していた。従って、レギュラーメンバーと予備軍が入れ替わっていく。だから大木塾に常時参加しているというのが、クイズプレイヤーとしてひとつのステータスになったのだ。長戸も知り合った西村の紹介で、大木塾に参加することもあった。長戸にとって大木は、「クイズのことで唯一叱ってくれる人」だった。適当な解答をすれば「そんな解答するんじゃねえ」と叱咤し、問題に対し思わず「そんなん知らんわ」などと口走れば「相手に隙を見せるな」と一喝した。そしてメンバーの向上心を刺激するのが上手かった。だから人も集まったのだろう。

第1回の『マンオブ』には、森田、道蔦の他、大木塾常連でクイズ番組でも名を馳せていた上智大学の松山弓子、横浜市立大学の水野文也、日本大学の田上滋、東海大学の西沢泰生ら、学連加盟のクイズサークルに所属していない「クイズ荒らし」たちも「ゲスト」という形で参加した。予選のペーパークイズで彼らは上位をほぼ独占。優勝したのも松山だった。まだまだ牧歌的だった大学クイズ研と、テレビのクイズ番組を舞台に戦ってきた「学生クイズ荒らし」との差が浮き彫りになったのだ。

そうした状況の中であらわれたのが西村顕治だった。
西村といえば1989年から始まったTBSの『史上最強のクイズ王決定戦』で水津康夫とともに2大王者として君臨したことで有名だ。中でも、「アマゾン川で」と問題が読まれただけでボタンを押し、「ポロロッカ」と正解した早押しは、いまでも“伝説”として語り継がれている。ちなみに問題はこう続く。

「アマゾン川で年に一度、河口から上流に向け、流れが逆流することを何という?」

西村顕治は、早稲田大学クイズ研の潮流を逆流させ、激流を巻き起こした、まさに「ポロロッカ」といえる存在だった。

彼は『第1回マンオブ』が行われた翌年の84年に早稲田大学に入学。新聞記者やジャーナリスト志望だったため、一般教養の勉強に役立つのではないかと思いクイズ研の門を叩いた。特にクイズが好きなわけではなかったのだ。だから、当初、西村はサークルの潮流に従ってクイズよりも麻雀ばかりやっていた。けれど、クイズをやってみると、同期の中で一番強かった。それに目をつけたのが一年先輩の西脇正純だ。大木塾にも通っていた西脇は、学連の仲間との「徹クイ」に西村を誘った。
「徹クイ」に参加した西村はそこで一度もランプを点けることができなかった。その悔しさがきっかけとなり西村はクイズにのめり込んだ。

早稲田クイ研には、西脇が作った「NYクラブ」という、本格的にクイズをやりたい人向けのサークル内サークルがあった。もちろん名前は『ウルトラクイズ』の「ニューヨークへ行きたいか?」から採ったものだ。西村は2年生になるとこれを取り仕切るようになり、齊藤喜徳や岩隈政信といった後輩たちを鍛えていった。

クイズの問題を分析し「この問題のポイントはここなんだ」と解説したクイズのノウハウをまとめたファイルを作って、独自のクイズ理論をサークルのメンバーに叩き込んだ。時には「今からみんな目を閉じろ」と突然言い出す。

「今から10円玉を落とすから、音が鳴った瞬間にボタンを押せ!」
早押しの反射神経を養う練習をしたのだ。

けれど、早押しクイズは早く押せばいいというものでもないということも西村は徹底して教えた。どうしても早押しを始めたての時期は、チャレンジして答えが十分に絞られる前に押してしまいがちだ。そんな時、西村は激怒した。
「クイズはギャンブルじゃないんだ!」

勝敗を左右するような大事な局面でチャレンジするのは構わないが、それを普段から行うのはただの「バカ押し」だ。西村は「問題を大切にしろ」と諭すのだ。

もちろん、自分自身への研鑽も欠かさなかった。
西村は常に平凡社の『世界大百科事典』を小脇に抱えていた。全35巻からなる項目が“あいうえお順”で書かれた重厚な百科事典だ。少しでも時間が空けばそれをラインマーカーを引きながら読み進めた。時折、後輩にニヤリと笑みを浮かべながら言った。
「齊藤、タ行まで来たぞ」

そんな西村を中心に早稲田大学クイズ研のレベルは飛躍的に上がっていった。第3回の『マンオブ』の決勝は、西脇と西村の早稲田大の同門対決に。高熱に犯された西村が誤答により自爆したこともあり、西脇が優勝した。

そして、第4回大会。西村は、選手ではなく、学連会長として問題を作成する側で参加。初めて関西勢を迎え、名実ともに「学生日本一」を決める大会になった今回、関東の盟主である自分たち早稲田大学が彼らの下になるわけにはいけない。西村は後輩たちに激を飛ばしていた。

西村が脅威だと感じていたのは、関東の他の大学ではなく、“西”からの遠征組だった。西村は前年、『アップダウンクイズ』でRUQSの加藤実に先を越され、「トリビアル・パスート」では秋利、仲野に苦渋をなめた。また、実は名古屋大学勢は前回の『マンオブ』にもゲスト参加し、予選のペーパーテストで仲野がトップを獲っていたのだ。

予選のペーパークイズは、3択クイズ100問。前夜、仲野が作った600問を解いた遠征組にとっては造作もない数だった。
スタッフのひとりとして採点を終え、その結果を見て相原は絶句した。
西村もわなわなと震えているようだった。

「それでは、結果を発表します。1位は名古屋大学の秋利美紀雄くん。そして同点でしたが、近似値差で第2位は、同じく名古屋大学の仲野隆也くん」

会場はどよめいた。なんと、名大クイズ研の2人が1位・2位を独占したのだ。驚きと悔しさに包まれるRUQS勢。けれど、彼らもしっかりと結果を残した。上位10名のうち、5人を長戸、加藤、稲川らRUQS勢が占めたのだ。完全に“西”側が、関東勢を凌駕した。

本戦でも彼らの快進撃は続く。
準決勝では長戸、稲川、鎌田のRUQS包囲網の中、秋利が激闘を制し決勝進出。別ブロックから勝ち上がったのが同僚の仲野だった。
仲野はこの同門対決に勝利し、見事、学生日本一の座を手にしたのだ。
まさに“西の旋風”だった。
この大会で、長戸の関東に対する意識は一瞬にして消え去った。

「こんな近くにRUQSのライバルがおったんや!」
それが嬉しくてたまらなかった。

(第20回に続く)

著者 てれびのスキマ(戸部田誠)
1978年福岡県生まれ。お笑い、格闘技、ドラマなどを愛する、テレビっ子ライター。「週刊文春」「水道橋博士のメルマ旬報」などで連載中。主な著書に『タモリ学』『コントに捧げた内村光良の怒り』『1989年のテレビっ子』『笑福亭鶴瓶論』『全部やれ。日本テレビ えげつない勝ち方』がある。
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