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ノンフィクションクイズ小説『ボルティモアへ』第20回「エンドレスナイト」

伝説の『第13回アメリカ横断ウルトラクイズ』に集う若きクイズ王たちの青春を、気鋭のライター「てれびのスキマ」(戸部田誠)が描く話題沸騰のノンフィクション小説『ボルティモアへ』。第2部、東西激突編スタート!

『ボルティモアへ』目次

第0回 連載開始予告
第1回 消えた天才
第2回 『ウルトラクイズ』の衝撃
第3回 レスポンスタイム
第4回 宝の地図
第5回 前哨戦
第6回 ハチマキ娘
第7回 ニューヨークで踊る男
第8回 奇跡の会合
第9回 クイズサークル
第10回 昭和40年男
第11回 マイコンボーイ
第12回 伝説のテストマッチ
第13回 立命オープン
第14回 RUQS革命
第15回 聖地 フラワー
第16回 トリビアル・パスート
第17回 地獄の細道
第18回 クイズ列車
第19回 ポロロッカ
第20回 エンドレスナイト
第21回 coming soon…
(以降、毎週木曜日公開予定)



Ⅴ 長戸勇人、21歳。西の旋風

エンドレスナイト

「わーっ、森田さんや! おめでとうございます!」
長戸勇人は合宿所に遅れてやってきた一群の中に森田敬和を見つけ、駆け寄った。

『マン・オブ・ザ・イヤー』で旋風を巻き起こした長戸らRUQS勢と名古屋大学クイズ研の秋利美紀雄、仲野隆也は、その翌日に、高円寺の富士屋旅館で行われたホノルルクラブの合宿に参加していた。そこにやってきたのが、この年の『第10回ウルトラクイズ』の王者・森田敬和だった。実はその日、『第10回ウルトラ』の出場者を集めた盛大な忘年会が開かれており、その中の有志が、ホノルルクラブの合宿に立ち寄ったのだ。

従ってこの日の合宿は、ホノルルクラブ会長の村田栄子を始めとする社会人クイズプレイヤーの猛者から、森田を筆頭にした『第10回ウルトラ』勢、西村顕治、青木紀美江ら関東の学生クイズプレイヤーの強豪たち、そして名大クイズ研、RUQSのエース格……と、当時トップクラスの現役クイズプレイヤーが一堂に会すことになったのだ。

この合宿を機に様々な出会いと、交流の輪が広がっていくことになる歴史的な日だった。

「あなたは!」
その顔を見て長戸はすぐに気がついた。

「『エンドレスナイト』ですよね?」

その言葉に男は嬉しそうにすぐ反応した。
「キミも『エンドレスナイト』好きなん?」

長戸がこの男が『第10回』の機内クイズを終えてタラップを降りてくる際、『エンドレスナイト』のシャツを着ていたのをはっきり覚えていた。『エンドレスナイト』は、当時、関西で放送されていた深夜番組。番組ではトレーナーやステッカーなど多くのグッズを作り、視聴者に様々な場所で番組をPRしてもらう「インベーダー作戦」なる企画を行っていた。長戸は番組のファンだった。ちなみに長戸はのちに、同番組の「ウルトラ風クイズ」企画に出場。ロケには、まだ素人だったますだおかだの増田英彦も参加していた。

「日本に永田ありって言われてる、あの永田さん!」
「あれはなにかの間違いやねん」

そう困ったように笑う男こそ、永田喜彰だった。彼はタラップを降りてくる際、福留功男に「日本に永田ありって言われてるあの永田さんでしょ?」と言われたのだ。それを見た長戸は衝撃を受けた。「日本に永田あり」とまで言われる実力者を自分がマークしていなかったことに。慌てて過去に自分がつけたクイズ番組のスコアなどを見返すと『クイズMr.ロンリー』パーフェクトくらいしか実績がなく不思議に思っていた。実は「永田」と「長戸」とが福留に間違って伝わったからではないかと言われているが、確かめる術はない。いずれにせよ、「日本に永田あり」という言葉で長戸は自分の前に立ちはだかる可能性のある男として強烈に永田を意識し始めたのだ。そして、それは数年後の『第13回』で現実のものとなっていく――。

『第10回ウルトラクイズ』は、RUQSにとっても大きな第一歩が刻まれた回だった。RUQSの中から初の予選突破者が出たのだ。
瀬間康仁である。

この年も昨年同様、RUQSはチームを組んで参加した。前年、メンバーの鎌田弘が被っていた立命館の帽子が遠くからでも目立っていたのを思い出した長戸はチームで統一のTシャツを作ろうと提案し、自らデザインをして黄色いTシャツを作った。

「これを着て一緒に走ろう!」

色を黄色にしたのは、遠くからでも見つけやすくするためだ。予選の○×クイズは、まだ残っている参加者が多い前半こそ、相談ができる時間があるが、次第にそんな時間がなくなっていく。急いで決断をしなければならないため、はぐれてしまう。そんなとき、メンバーを探すのに役立った。また、間違えてスタンドに戻った人たちが正解を確信した時に、グラウンドに残った黄色の集団に向けてサインを送るという作戦も立てた。

もちろん、チームで行動するといっても一蓮托生ではない。最終判断は個人に委ねられていた。本当に自信がある場合だけ教え合い、中途半端な自信で仲間を巻き込むことはないよう徹底されていた。だから、途中で他のメンバーとは別の解答に向かった瀬間だけが予選を突破したのだ。

遂に通った。その喜びは大きかったが、まだ現実感はなかった。
「ああ、事前に取ったパスポートがムダにならなくてよかったな……」
そんなことを漠然と思っていた。

後楽園球場の第1次予選から成田空港での第2次予選までには約1ヶ月の期間がある。決勝まで勝ち進めば約1ヶ月の長旅になる。予選突破者はそれに向け、社会人なら職場に長期休暇の交渉をしなければならない。どうしても都合がつかず辞退する出場者も少なくなかった。

ある日、瀬間の家にスタッフから電話がかかってきた。出場の意志を伝えると、いくつか質問された。

「身長と体重は?」
そんなことまで聞くんだと思いつつ、何の気なしに答えたが、これが“伏線”だとは思いもよらなかった。

86年9月6日、成田空港には予選を突破した約100人が集まっていた。
2次予選は毎年じゃんけんだ。クイズ番組にもかかわらず、クイズとはまったく関係ないところで運否天賦が試される理不尽さは、『ウルトラクイズ』の性格をもっともよくあらわしていた。瀬間はじゃんけんには自信があった。特に必勝法があるわけでも運が強いわけでもなかった。けれど、気合だけは誰にも負けない。気合でなんとかなると確信していたのだ。

恒例のじゃんけんを始めようとする福留に、「ちょっと待った!」と徳光和夫が割って入る。「じゃんけん反対」だと声を上げ、出場者たちにもその声に同調する。が、これもまた毎年恒例の流れ。なんだかんだ終わってじゃんけんになるものだと誰もが思っていた。

しかし、この年だけは違っていた。福留は2次予選の方法の変更を了承したのだ。そして新たな対戦方法が示される。

腕相撲――。

この発表に腕力に自信がある者は喜び、そうでないものは怪訝な顔をした。じゃんけんのような運の要素は格段になくなった。腕っぷしに自信があった瀬間にとっては好都合だった。しかし、瀬間は思わぬ事態に陥ってしまう。
対戦は男女別なのはもちろん、事前にスタッフが聞き取りを行っていた体重の近い者同士で行われた。

瀬間の対戦相手は、左利きだった。この場合、左右どちらで対戦するかはじゃんけんで決められる。運の要素が一気に高くなってしまった。結局、じゃんけんに負けた瀬間は左手で戦うことになり、あえなく敗れてしまったのだ。

一方、『第5回』から毎年出場していた永田喜彰も初めて予選を突破していた。当時はまだクイズを真剣にやっていたわけではなかった永田は、いつも趣味の旅行のついでに“お祭り”に参加するような感覚で後楽園球場にやってきていた。福留のアジテートに対して「おー!」と声を張り上げるのが楽しかった。音楽ライブに来ているような興奮だった。

自分は誰よりも引きの強い男だ。
事あるごとに自分の運の良さに救われていた永田は、そんな根拠のない自信を持っていた。
「僕ほど努力以上に成果を上げてる人はいない」と。

幸運は、この2次予選でも発揮された。なんと、永田は不戦勝となったのだ。対戦予定だった出場者が急病で来れなくなったためだ。そうして、永田はグアムまで勝ち残ることができたのだ。

ところで、永田はこの2次予選の前に、ある人物と再会を果たした。この年に出場した『クイズMr.ロンリー』の収録の際、一緒になった西沢泰生だ。

西沢と一緒にいると、軽い感じの男が話しかけてきた。
「この調子で行くと、俺と西沢が決勝に行って、10対8で俺が勝つな」

そう笑っていたのが森田敬和だった。もう既に「クイズ荒らし」として有名だった森田だが、まだクイズ番組を熱心に見ているわけではなかった永田は彼の存在を知らなかった。

グアムで泥をかぶり敗退した永田は帰国後、放送された『第10回』を見て驚いた。
番組10周年ということもあってか、途中、北米コースと南米コースとに分かれ、決勝で合流するという過去最大のスケールで行われたこの大会。その最後の決勝の舞台に残ったのが森田と西沢の2人だった。
しかも、森田の“予言”どおり10対8で森田が優勝したのだ。

「クイズを真剣にやっている人はすごい!」
永田は少しでも彼らと「お近づき」になりたいと思った。
そんなこともあって、『第10回』の忘年会があると聞けば、迷わず神戸から上京し、そこでホノルルクラブの合宿をしてると聞くと、参加予定でもなかったのに一緒に連れて行ってもらったのだ。

「どういうこと!」
合宿2日目の朝、青木紀美江が激怒していた。
朝食が足りなくなっていたのだ。
参加予定ではなかった永田が食べてしまっていたからだ。そんなこととは知らず永田は朝食を頬張り、参加者たちと話しながら、満面の笑みを浮かべていた。

永田は誰よりも“許される”人だ。
気ままな自由人のため、時折問題を起こすが、その邪気のない笑顔を見ると周りが許してしまうのだ。
けれど、青木はそういうことが許せなかった。

「なんなの、あの人!」
その様子を見て長戸が青木に声をかけた。
「そんなことより、キミエちゃん、今度出るんやろ?」
この年、青木は『アタック25』の「年間チャンピオン大会」に出場することが決まっていた。この年行われた回の中で獲得パネルの多い優勝者を集めた大会だ。青木は5月放送の「大学生大会」で22枚獲得し優勝していたのだ。

11月末には、この大会に向けた対策会が大木塾で開かれた。
大木が青木のために呼んだ練習相手は中央大学の石野まゆみや早稲田大学の齊藤喜徳といったクイズ史に名を残す強豪たち。石野とはこの時初対面だったが、数少ない女性プレイヤーで同い年。容姿端麗でテレビでも活躍をする彼女にライバル意識を持っていた。彼女たちと本番同様のルールで対戦し、青木はパネル20枚を取る快勝をし、自信をつけていた。

「や、やってしまった……!」
本番のチャンピオン大会の後、呆然となりながら青木は長戸に電話をかけた。
前半は接戦だった。しかし、別の出場者のひとつのパネルミスから大きく戦況が変わる。

「なぜ角を取らないッ!?」
と司会の児玉清が言うようなミスだ。これで流れが変わり、優勝争いは2人に絞られた。「アタックチャンス」の時点で2つの角を取っていた白の青木が10枚でトップを走り、1つ角を取り8枚を獲得していた赤が追う展開。ここで青木は運も味方につける。アタックチャンスで他の出場者が正解し、赤が取っていた角が空いたのだ。運命を大きく左右する次の問題で赤に押し勝った青木は、その角を取り、ほぼ勝利を手中に収めた。ここから残り4問。

彼女は“ゾーン”に入った。
正解を重ねていくごとに会場はざわついていった。

「大変なことになってきました!」
司会の児玉も興奮を隠せない。

「あと2回お答えになるとパーフェクトでございます。チャンピオン大会でパーフェクトとはまさにスリリング! わたくしは体がゾクゾクしてまいりました!」

そして最後の問題が読み上げられる。
「アメリカ民謡『いとしのクレメンタイン』を原曲とする山の歌といえばなんでしょう?」

青木はボタンを押した。
「雪山讃歌!」
「そのとおーり! やったぁー!」
青木は手をたたきながら飛び上がって歓喜した。

「ラストコール! ラストコールをしてください。泣いてます、青木さん、泣いております!」
「19番!」
すべてのパネルが白く染まった。
青木紀美江は、年間チャンピオン大会でパーフェクトを達成したのだ。

選ばれしクイズプレイヤーは、知識や気力、運などすべてが整った「瞬間最大風速」的な無敵状態ともいえるピークを迎えることがある。
青木にとってそれは、まさにこの1986年だった。

『マンオブ』で優勝した仲野隆也も、『アタック25』でパーフェクトを達成した青木紀美江も長戸と同い年。彼は大きな刺激を受けていた。この時、長戸勇人は21歳だった。

ちなみに、ホノルルクラブ合宿を終えると、RUQS勢と名大クイズ研に永田を加えた面々は鈍行列車で一緒に“西”へ帰っていった。その車中でも当然のようにクイズに明け暮れ、楽しすぎて名古屋駅到着に直前まで気づかず、秋利と仲野は降り遅れそうになった。慌てて降車した仲野は『マンオブ』の優勝トロフィーを網棚に置き忘れてしまうのだった。

(第21回に続く)

著者 てれびのスキマ(戸部田誠)
1978年福岡県生まれ。お笑い、格闘技、ドラマなどを愛する、テレビっ子ライター。「週刊文春」「水道橋博士のメルマ旬報」などで連載中。主な著書に『タモリ学』『コントに捧げた内村光良の怒り』『1989年のテレビっ子』『笑福亭鶴瓶論』『全部やれ。日本テレビ えげつない勝ち方』がある。
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