伝説の『第13回アメリカ横断ウルトラクイズ』に集う若きクイズ王たちの青春を、気鋭のライター「てれびのスキマ」(戸部田誠)が描く話題沸騰のノンフィクション小説『ボルティモアへ』。第2部、東西激突編スタート!
『ボルティモアへ』目次
第0回 連載開始予告
第1回 消えた天才
第2回 『ウルトラクイズ』の衝撃
第3回 レスポンスタイム
第4回 宝の地図
第5回 前哨戦
第6回 ハチマキ娘
第7回 ニューヨークで踊る男
第8回 奇跡の会合
第9回 クイズサークル
第10回 昭和40年男
第11回 マイコンボーイ
第12回 伝説のテストマッチ
第13回 立命オープン
第14回 RUQS革命
第15回 聖地 フラワー
第16回 トリビアル・パスート
第17回 地獄の細道
第18回 クイズ列車
第19回 coming soon…
(以降、毎週木曜日公開予定)
Ⅴ 長戸勇人、21歳。西の旋風
クイズ列車
学生クイズ王決定戦『マン・オブ・ザ・イヤー』(通称『マンオブ』)に出場する長戸勇人たちRUQS勢を乗せた大垣夜行は、深夜、名古屋駅で停車し、名古屋大学クイズ研の秋利美紀雄と仲野隆也が合流した。
ひと通り簡単な自己紹介を済ませ、列車が豊橋を過ぎた。豊橋から東京まで途中停車駅はほとんどない。翌日は、大事な大会を控えている。普通なら英気を養うため、しっかりと睡眠し、体と頭を休ませるところだろう。けれど、彼らはそうではなかった。とびきりクイズ好きのクイズ研のメンバーが集まったのだ。誰彼ともなく「じゃあ、クイズでもやろうか」という声があがった。
「僕、ペーパー持ってきたから、これをやる?」
口を開いたのは仲野隆也だった。
「おお、やろうぜ」
RUQS勢も賛同した。が、次の瞬間、彼らは「うっ!」と言葉を失った。
仲野が持参したペーパークイズの量に驚いたのだ。そこには600問ぎっしりと3択クイズが書かれていた。
長戸は、自分たちが一番クイズに真剣に取り組んでいると思っていた。こなしているクイズの質や量で負けることはないと思っていた。けれど、仲野が用意してきた問題は、それを凌駕していた。自分たちRUQSのライバルとなるのは、早稲田大学ら関東の大学クイズサークルだと思っていたが、違うかもしれないという予感がした。名古屋大学クイズ研こそが、RUQSのライバルとなっていくのではないかと。
ペーパークイズが終わった後も、即席の早押しクイズ大会が始まった。
彼らは列車が早朝4時30分近くに東京に着くまでずっと一睡もせずにクイズに明け暮れた。よく徹夜で麻雀をすることを「徹マン」などと言うが、同じように徹夜でクイズをすることを「徹クイ」と呼ぶ。彼らは夜行列車で「徹クイ」をしたのだ。それは「クイズ列車」と呼ぶしかないものだった。
このクイズ列車は翌年には参加者が倍に、翌々年には先頭車両すべてがクイズ研のメンバーだけで埋まってしまうほど大規模になっていった。車両には早押し機も持ち込まれ、クイズ企画のためのボードなども車内に貼り付け、本格的なクイズ大会となっていった。時折やってくる車掌もその光景に苦笑いを浮かべるしかなかった。
中学2年の頃、鹿児島の祖母に行く途中、名古屋空港の本屋に『クイズグランプリ』のクイズ本第5巻が置いてあった。「こんな本があるんだ!」と思った仲野はすぐに購入し、飛行機の機内で食い入るように読みこんだ。程なくして、そこに書かれているクイズ1900問をすべて覚えた。それ以来、クイズ本を集め出し、頭の中に入れ続けた。
学校の成績は決して良くはなかった。けれど、中3の後半から集中して勉強し始めると一気に成績は上がった。中学の受験勉強はいわばいかに暗記できるか、だ。だから、クイズのインプット法が役に立ったのだ。志望校に合格できたことは大きな自信になった。
初めてクイズ番組に出たのは中学を卒業した1981年の春休み。東海テレビで制作されていた、なべおさみ司会の『家族対抗チャンスクイズ』という名古屋のローカル番組だった。番組タイトルどおり両親と3歳下の弟と「家族」で出場。クイズ番組をよく見ていたから、これなら勝てるだろうと思い応募し、思ったとおり勝利した。
これが仲野の最初の成功体験だった。
そんな仲野がプレイヤーとしても輝きを放ったのが、高校2年の夏休みに出演した『クイズタイムショック』「高校生大会」だった。
他の出場者にはラサール高校や開成高校など名だたる進学校の生徒もいた。しかもその中のひとりは、同い年の石野まゆみだった。彼女は中学のときに『タイムショック』と『アップダウンクイズ』の中学生大会でそれぞれ優勝していた。この後も数々のクイズ番組に出場し、全15勝を誇るクイズ女王となり、大学時代には、その知性と美貌を買われ、NHKのつくば科学万博を紹介する番組『ハイライト科学万博』のキャスター役にも抜擢されることになる人物だ。
そんな相手を前にしても仲野は自信があった。なぜなら、『タイムショック』の過去問題でわからなかった問題をメモするなど対策はしっかりできていたからだ。勉強なら負けるかもしれないが、クイズで負ける気はしなかった。
その自信どおり、仲野はここでも勝利する。
「たいしたことないな……」
それが仲野のクイズ研に対する第一印象だった。
自分くらいハードにクイズをやっていたヤツはいない。仲野にもまたそんな自負があった。だから、『第8回ウルトラクイズ』で予選を勝ち抜いた秋利とて、自分ほどの実力はないと感じたのだ。
仲野は三重の実家から2時間近くかけて大学に通った。その間、考えているのはずっとクイズのこと。
仲野は問題を作るのが好きだった。
ワープロを手に入れた仲野は、それを使って問題を入力していった。けれど、当時のワープロはメモリの容量が少なかった。そのため、少し入力しては印刷し、また入力、印刷という作業を繰り返した。毎週行われる例会に向けて、100問の3択クイズを作るのが日課になった。書籍、雑誌、辞書、新聞、ヒットチャートに至るまで、問題のネタは無数にある。だから困ることはなかった。
のちに仲野のペーパークイズは、本人の知らぬ間に様々なクイズサークルに出回っていったという。今では多くのクイズ王やクイズ作家が問題集を出版しているが、当時は番組のクイズ本くらいしかなかった。だから、仲野のペーパークイズはクイズを勉強するものたちの貴重な問題集となっていたのだ。
仲野はとにかく楽しかった。こんなことをやっているのは自分たちくらいだろう。そういう普通の人がやっていないことを追求している喜びと、それを理解し一緒にひとつの高みを目指している仲間がいる。それがたまらなく嬉しかった。そして、自分たちが新しいスタンダードを作っている、という実感があった。
そして、仲野は自分たちと同じようにクイズに向き合っている連中と、「クイズ列車」で出会ったのだ。
早朝の4時半頃、列車は東京に到着した。
この年の『マンオブ』は慶應大学で昼頃から行われることになっていた。
「徹クイ」の後だ。大会が始まるまで少し休もう――。
そんなことを言うヤツはひとりもいなかった。
「ここにあった!」
東京駅の地下にスペースを見つけると彼らはすぐにまたクイズ大会を始めてしまったのだ。
(第19回に続く)
1978年福岡県生まれ。お笑い、格闘技、ドラマなどを愛する、テレビっ子ライター。「週刊文春」「水道橋博士のメルマ旬報」などで連載中。主な著書に『タモリ学』『コントに捧げた内村光良の怒り』『1989年のテレビっ子』『笑福亭鶴瓶論』『全部やれ。日本テレビ えげつない勝ち方』がある。