サッカージャーナリストとして需要があるのは
ワールドカップの時だけ
――この頃、サッカーの取材以外でどんな仕事をしてたんですか?
長束 日本人ツアーの観光ガイドとか、使節団なんかの通訳。あとはメディアのコーディネーターとかね。それで2005年に個人経営の会社を立ち上げたのよ。クロアチア人と結婚しない限りは、ビザを解決する方法はそれしかないからね。
――なるほど。でも、日本で会社を作るのも大変なのに、それをクロアチアでやるとなるとだいぶ苦労したんじゃないですか?
長束 本当に大変だった! 役所のたらい回しは当たり前だし、クロアチア人の仕事ぶりはやたらと遅いし……。それでも現地の法律家や会計士など、いろんな人が手助けしてくれてどうにかなったね。で、そんなことをしているうちに、クロアチアと日本が再びワールドカップのグループステージで対戦することになって。
――2006年のドイツ大会ですね。
長束 当時「クロアチア サッカー」でネット検索したら、日本語のサイトは僕のしかないわけ。だから抽選会で両国の対戦が決まってからというもの、たくさんの仕事が舞い込んだよ。「現地取材したいからコーディネートしてほしい」という依頼が一番多くて、並行してスポーツ紙の現地特派員も務めた。さらに『やべっちFC』に「元クイズ王・クロアチア博士」という肩書きで準レギュラーとして出演したりして忙しかったね。この年は、テレビ局のコーディネートはTBS以外全局やったね。……ただ、需要があるのはワールドカップの時だけなのよ! 終わってしまうとペンペン草も生えない状態になるわけさ。
――そういうお仕事もワールドカップが終わると無くなってしまったわけですね。
長束 ただ、この頃はすでにライターとして日本の専門誌に記事を書いていたから。2003年に『ワールドサッカーダイジェストEXTRA』に書いたのが最初かな。「現地発の連載コラムを書きませんか?」と依頼を受けたんだけど、2回ほど書いた時点でバスケットボールの日本代表通訳の仕事を引き受けたので、コラム枠を手放してしまったんだよね。再びクロアチアに戻ってからは、ホームページやブログを通してクロアチアサッカーの情報を発信しつつ、依頼があれば『ワールドサッカーダイジェスト』や『フットボリスタ』などの専門誌に寄稿するという感じだった。
オシムのインタビュー本は
クロアチア語で手紙を書いたことで実現
――クロアチア語の本を出したのもこの頃ですか?
長束 それは2007年だね。語学本の『旅の指さし会話帳・クロアチア語』が、僕にとって初の著作となった。そして同じ年に、サッカー日本代表監督となったオシムの本も出したんだよね。オシムは2003年にジェフの監督になったんだけど、その頃からクロアチアやボスニアの新聞で日本について何かと語っていたのね。なので僕は現地でそれを拾っては、自分のホームページで翻訳紹介していたのよ。
――オシムが地元のメディアで語った言葉を、長束さんが日本に向けて発信していたんですね。
長束 オシムが2006年夏に日本代表監督に就任すると、その前年に発売された『オシムの言葉』が60万部を超える大ベストセラーになったじゃない? 他の出版社も「二匹目のドジョウ」を狙ってこぞってオシム本を出す中で、僕のホームページを見た新潮社の編集者から「現地メディアに発したオシムの発言を1冊の本にまとめませんか?」とオファーが来たの。
――なるほど、ホームページがきっかけだったと。
長束 で、その編集者が「制作にあたっては、オシムの許可をちゃんと取りたい」と提言してきたので、僕がクロアチア語で手紙を書いたのね。そうしたら「今はやたらと私に関する本が出ている中、きちんと許可を求めてきたのはあなたたちだけだ。だったら、あなたたちの本のために話をしようじゃないか」とオシム本人が申し出てくれて。
――おぉ、すごい!
長束 それで日本に一時帰国して、ロングインタビューの席を4回も設けてもらった。そこで録音した話を僕が日本語に訳し、同席した編集者が1冊にまとめたのが「オシム初の著作」という触れ込みで出版された『日本人よ!』。
――そういう経緯だったのですね。
長束 あの本はアジアカップの最中に出版されたものの、残念ながら日本代表は準決勝でサウジアラビアに負けちゃった。そのせいか売れ行きが伸びなかったんだよね。日本代表の結果次第では、もっと売れたと思うんだけど……。でも、オシムのような偉大な指導者の本に関われたのは本当にうれしかった。……ただ、だんだんと日本のメディアの未熟さばかりが目につくようになってね。
――どういうところですか?
長束 彼の語りは「オシム語録」と持て囃されたじゃない? だから、彼がことわざや比喩を使うことばかりをやたらと期待するんだよ。せっかくサッカーや人生の本質を突いた素晴らしい話をしてくれるのに、大きく取り上げるのはキャッチーなことわざや比喩ばかり。
――あぁ、なるほど。
長束 あと、インタビュアーとなる新聞記者やディレクターの通訳をすることも多かったんだけど、彼らはオシムを目の前にすると萎縮しちゃうのよね。その一方で質問内容は「日本サッカーが強くなるためには?」みたいなワンパターンなことばかり。
――「オシムに対する質問」も「オシムに関する記事」も、どれも同じような切り口になってしまうと。
長束 オシムはクロアチアのサッカーについて雑談している時のほうが楽しそうだったし、僕も実際に楽しかった。惜しくも昨年(2022年)、亡くなられてしまったけどね。
リトアニアに移住し
東欧諸国のサッカー事情を取材
――その後、長束さんはクロアチアを離れましたよね?
長束 うん。妻とはクロアチアで知り合ったんだけど、彼女の仕事の関係で、2011年にリトアニアの首都ビリニュスに引っ越した。ただ、リトアニア人というのは自殺率世界一を競うほど暗い国民性だから、クロアチア人と比べるとほんと冷たくて……。現地の人にも日本人社会にもなじめず、毎月、国外脱出するかのように取材旅行をしていたよ。
――それで東欧諸国のサッカーに触れることになったわけですね。
長束 そう。クロアチアにもしばしば戻ったし、隣国のポーランドやラトビア、さらにはジョージア、ウクライナ、コソボ、キプロスなども取材した。そんな知られざる現地のサッカー事情を『フットボール批評』や『欧州フットボール批評』という専門誌で連載させてもらって。
――そういえば、今はウクライナが戦争状態じゃないですか。そのウクライナにも行かれてたんですね。
長束 2014年にキーウの中心街で反大統領派のデモ隊と治安部隊が衝突し、100人以上が亡くなる「マイダン革命」が起こったんだけど、その直後に行われた「ディナモ・キーウ対シャフタール・ドネツィク」のダービーマッチを取材した。国情は当時から物々しかったよ。あと、その6年前にはウクライナ東部のドネツィクにも訪れている。今、ロシアとの激しい攻防戦が行われているところだね。
――日本にいると、そういうのは全然想像つかないです。
長束 かつて戦地だった国、あるいは戦地に変貌する国をいくつも取材して痛感したのは、それぞれの国にそれぞれの事情があるということ。だから「平和」だけを唱えていても解決しないことはいくらでもある。たとえば旧ユーゴ諸国では血を血で洗う民族間の戦争が引き起こされたわけじゃない? この時はいろんな民族がいろんな主張をしたけど、実際には似ているところとか繋がっているところもあって……。
――対立しあっている民族でも、どこか通じあっている部分があったりもすると。
長束 そう。で、僕はそういう人間臭さを、サッカーを通して書くのが好きなのよ。綺麗ごとばかりじゃない世界というか……。あちらに住んだおかげで、そういうリアルな人間社会を知れたというのはあるかもしれないね。
――実際に見に行ったり、体験したりすることの大切さを感じますね。
長束 僕がマイナーな国を好むのは、間違いなくクイズがきっかけだと思う。それこそ80年代の文通サークルの名前にもなった「知的好奇心」に衝き動かされたんだろうね。「知らない国を訪れてみたい」という気持ちはいまでも強いよ。今ではインターネットでなんでも調べられる時代とはいえ、現地に足を運ばなければ感じ取れないことは山ほどある。中でもサッカースタジアムに行くとその国の国民性が一番わかる。「とにかく現地に行ってみよう!」というのは、自分のポリシーのひとつでもあるよね。「現地で見たもの、感じたものを文章にしたい」という気持ちは、昔から強いほうだと思うよ。
――それで執筆されたのが『東欧サッカークロニクル』ですね。
長束 そうそう。僕としては、この本でミズノスポーツライター賞を獲りたかったの。サッカージャーナリストとしてひとつの目標でもあったからね。でも、誤植があまりに多くて……。「これではとても賞は無理だ」と諦めていた。ところが直後のワールドカップで、クロアチアがあれよあれよと準優勝したじゃない?
――2018年のロシア大会ですね。
長束 おかげでクロアチアのことも取り扱っていたこの本も注目を浴び、重版がかかることになった。なので、それを機に誤植をすべて直してもらって、それからミズノスポーツライター賞に応募したの。
――その甲斐あって、最優秀賞には手が届かなかったものの、見事に優秀賞に輝きました。
長束 授賞式では、大きなクリスタルトロフィーをミズノ社長から手渡されてね。事実上の2位だったとはいえ、誇らしい気分になれた。これでクイズしかなかった自分を、ようやく忘れることができた。「サッカージャーナリストとして、行けるところまで辿り着いた」という境地になれたのは大きかったね。
――いやぁ、ほんと波乱万丈ですね!
2022年のワールドカップでは
クロアチアから取材依頼が殺到
――2018年に日本に帰国されましたが、お仕事の中心はサッカー関係ですか?
長束 そうだね。ただ日本のサッカーメディアはどんどんと縮小しているので、仕事の機会は限られているよね。あと、なんだかんだ言っても日本人はメジャーな国やクラブが好きだから。
――たしかにクロアチア代表って、強豪のひとつではあるけど継続的に話題になるようなチームではないですものね。
長束 でも、昨年のワールドカップではまたしてクロアチアが注目を浴びたのよ。日本と決勝トーナメントの1回戦で戦ったので。あの時は日本以上に、クロアチアからの連絡がすごかった! 「日本人で我が国のサッカーと縁深い人物といえばナガツカだ」っていうことで。グループステージ第3戦で日本がスペインに逆転勝ちしたことでクロアチアとの対戦が決まったんだけど、試合が終わる10分ほど前からDMがばーっと来たね。最初は友人からの「おめでとう!」という祝福が多くて、その後はメディアからの「取材させてくれないか?」という依頼の嵐。最終的には、オンラインや電話で10社ぐらい取材を受けたのかな。クロアチア公共放送にもビデオメッセージを送ったよ。
――なるほど。日本とスペインとの試合中に、クロアチアのメディアは「もし日本が勝ったら、我が国と対戦することになるな」「そうなったら、すぐにナガツカに連絡だ!」となったわけですね。
長束 そう。クロアチアには僕と親しいメディア関係者が多いからね。その“ゲーゲンプレス”たるや本当にすごかった!
――日本のメディアはどうでしたか?
長束 テレビ朝日のニュース番組にも出演した時は、クロアチア代表について30分以上熱く語ったのに1分しか使われなかった。「試合結果を予想してください」と頼まれたので「延長戦でクロアチアが得点を決めて日本に1-0で勝利」とフリップに書いたら、すべてカットされるし……。まぁ、僕が「非国民」と言われないように気を使ってくれたのかもしれない(笑)。で、テレビ朝日の収録があまりに消化不良だったので、同業者のツイッターのスペースに出演して1時間ぐらいクロアチア代表について語り尽くしたのよ。「前大会準優勝のクロアチアが、日本で列強国扱いされないのはおかしい!」などとメディアの悪口も散々言ったんだけど(苦笑)。それを2日間で1万3千人も聴いてくれた。あれには僕もビックリしたな。
――さすがワールドカップですね。注目度がすごい!
長束 大会前にはフジテレビのクロアチア取材のコーディネートもしていて、その時に「ルカ・モドリッチの独占インタビューが取れませんか?」と頼まれたのよ。彼はバロンドールを獲得したほどのワールドスターだけに、所属のレアル・マドリーを通してのインタビューはそうそう取れない。なのでフジテレビとしては、代表戦がクロアチア本国で行われるタイミングでインタビューをしたいと見計らっていたのね。
――それって、長束さんに頼めばなんとかなるものなんですか?
長束 「あー、できるかも」と思った(笑)。それで仕事を引き受けて、レポーターのSHONOさんとディレクターと僕の3人でクロアチアに渡った。
――ずいぶん簡単に引き受けましたね(笑)。
長束 現在のクロアチアのサッカー協会の広報は、僕がサッカージャーナリストになるきっかけをつくってくれた「Sportnet」の元編集長なの。で、彼が「ナガツカのことは常に評価しているから」と、個人的にモドリッチにプッシュしてくれたのね。その結果、国内外のメディア15社ほどがモドリッチへのインタビュー申請をした中で、実際に受けたのはフジテレビを含む2社だけ。持つべきものは友だよね。SHONOさんは熱狂的なマドリーファンなだけに、モドリッチと会えて感激していたよ。
――やっぱり人との絆ですね!
長束 僕自身はモドリッチとは旧知の間柄なんだけど、個人的に推しの選手がもう1人いてね。それは「モドリッチの後継者」と呼ばれるロヴロ・マイェル。出会ったのは2019年の秋かな。ディナモからスペイン代表に選ばれたダニ・オルモのインタビューを終えた後で、隣のテーブルにいた選手たちから「一緒にお茶でもしないか」と誘われてね。その時にクロアチア生活で培ってきたジョークを連発したらバカウケして(笑)。
――選手たちのハートをつかんだと(笑)。
長束 そうしたら、そのテーブルにいたマイェルが「気に入った! 君にあげたいものがある」と言って、実際に着用した背番号10のユニフォームにサインを入れてプレゼントしてくれたのよ。
――背番号10ってことは、チームのエースだったのですか?
長束 それが、当時の彼は監督に干されていたのね。で、その翌年になるんだけど、昔に撮影した写真をインスタグラムにアップしている途中で、アーカイブの中から「エスコートキッズだった10歳のマイェルが、当時ディナモの主将だったモドリッチと手を繋いで入場してくる写真」を発見した。その写真に彼の名前をタグ付けしてアップしたら、5分も経たないうちに本人から「写真があるなんて信じられない!」と連絡が来てね。なのでユニフォームのお礼も兼ねて、当時の写真をすべて送ってあげた。彼もその写真を自分のインスタに載せたら、もうクロアチア国内で大反響を呼んで。
――うわぁ、いい話ですね!
長束 それが新シーズンの開幕直前で、そのシーズンにマイェルはブレイクした。ディナモで目覚ましい活躍をして、翌年にはフランスのレンヌに移籍。フランスリーグの年間ベストイレブンに選ばれた。今ではクロアチア代表にも定着し、モドリッチとマイェルが代表で一緒にプレーするたびに僕の写真が話題になるんだよね。
――その写真は、僕も何度かツイッターのタイムラインで目にしました。
長束 去年9月に代表取材でマイェルと再会した時は、お互いに強く抱き合ったね。「彼がここまで成長したんだ」と思うと涙が止まらなかった。その後で本人にインタビューをしたら「ブレイクは君の写真のおかげ」「あの写真でモチベーションが湧いた」と言ってくれてね。彼とはいつでも連絡を取り合える間柄で、ワールドカップ中にもエールを送っていたよ。……うれしいよねぇ。自分の撮った写真が、選手のキャリアに大きな影響を与えることになるなんて。
――クロアチアのサッカーに半生をかけた長束さんの想いが、そこに結実したのかもしれないですね。
長束 ねぇ! クロアチアサッカーに人生を捧げてきたのが報われた感があるよね。こんな推しがいるクロアチアを、これからも応援しなくてどうすんだよ!
――クイズもそうですが、どこの世界でも人との絆が大事ですね。
長束 それは間違いない! ……でも、現地の友だちは元フーリガンばっかりだけどね(笑)。
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