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INTERVIEW

「QUIZ JAPAN vol.14」掲載『パネルクイズ アタック25』インタビュー(ダイジェスト版)~問題アドバイザー/山口牧生~


2022年3月7日頃発売の「QUIZ JAPAN vol.14」に収録されている『パネルクイズ アタック25』インタビューから、ダイジェスト版を全3回にわたって公開! 第2弾は、問題アドバイザー・山口牧生のインタビューをお届けする。
(2021年8月24日収録 聞き手:大門弘樹)

山口牧生(やまぐちまきお)
1947年、大阪府生まれ。1975年3月より放送作家として活動。これまでに担当した主な番組は『霊感ヤマ感第六感』『プロポーズ大作戦』『三枝の国盗りゲーム』『ラブアタック!』『探偵!ナイトスクープ』など。

堤さんに大反対された
アタックチャンス

――放送作家になられたきっかけから教えてください。
山口 きっかけは学生時代の下宿です。みんなでダンスパーティに行ったりするような楽しい仲間だったんですけど、その中にABCで『霊感ヤマカン第六感』のディレクターをしてる松本修さんという人がいたんですよ。その松本さんが、下宿している僕ら学生に「問題を作るバイトをしてくれ」という提案をされまして。
――それはまた、すごいところから依頼が来ましたね(笑)。
山口 それで、みんなで問題を提出したんですけど、僕はすごく採用率が良かったんですね。なので、そのまま「バイトせえへんか?」と誘われて、会議に出席するようになったのがきっかけです。実は僕、大学卒業後に、世界一周放浪の旅を予定していたので、バイト代を貯めて旅費にしようと期待していたのですが、ギャラは安いままだし、担当番組は増えても貯金は増えず、時間が無くなるだけで、一時焦りました。しかし、毎日いろんな人と出会えることが楽しみになり、気が付くとこんなに長く放送作家をしています。
――その下宿で、そのままプロになったのは山口さんだけですか?
山口 テレビ業界で働いているのは、僕と、そのABCのプロデューサーの松本さんだけですね。あとの人は、銀行員とか僧侶とか全く関係のない世界に行きました。
――プロになってから最初に手がけた番組は何でしょう?
山口 『霊感ヤマカン第六感』でデビューして、その次は「ワイドショーをやれへんか?」と言われて『プラスα』という番組を担当しました。これが75年ですね。で、ちょうどその頃に、朝日放送と毎日放送の腸捻転解消というのがあったんですけど……。
――ネットチェンジですね。
山口 はい。それで朝日放送は、NET(現・テレビ朝日)とネットを組むことになったんですけど、そのせいですごく苦戦をしてまして(苦笑)。
――それまで組んでいたTBSと比べると、NETは後発のテレビ局だったため、系列局も少なくて大変だったようですね。ただ、このネットチェンジが『アタック25』誕生のきっかけになったのですよね?
山口 そうです。毎日放送の『東リクイズ イエス・ノー』が終了に追い込まれたんですよ。それで「6チャンネル(朝日放送)でクイズ番組を作ろう」ということで、『アタック25』を立ち上げたようなんですよね。その時に毎日放送で『アップダウンクイズ』をされていた堤章三さんにお声がかかって(編集部注:堤は『東リクイズ イエス・ノー』も担当していた)。で、パネルの色を変えるという趣向は、三上泰生さんという有名なプロデューサーさんの発案らしいんです。あれは画面を見ているだけでも楽しいので、当時の子どもにすごく人気だったそうですよ。
――白黒テレビの時代に始まった『アップダウンクイズ』は、得点をゴンドラの上下の動きで表現していました。それに対し『アタック25』は、放送を開始したばかりのカラーテレビを活かした得点の見せ方ですよね。
山口 そうです。ただ、僕は参加した時はまだ白黒テレビしか持ってなかったんですよ。なので、しばらくは色の濃淡で判別していました(苦笑)。
――そうなのですね(笑)。そんな『アタック25』の黎明期に、山口さんが参加されたきっかけは何だったのでしょうか?
山口 75年の4月から放送が始まって、僕が参加したのが9月の収録分からですね。「視聴率を上げなあかん」ということで、編成の人が声をかけてくれて。で、その時に言われたのが「問題を作ってくれへんか?」というのと、あと「25分番組が30分番組になるので、どうしたらいいか考えてくれ」ということでした。それで会議に行ったら、みんなが「時間を5分延ばすために、イベント的な要素をくっつけよう」みたいなことばかりを考えてたので、「そうじゃなくて、取ったパネルをひとつ消したら、あとの展開が面白くなりますよ」と言ったんですよ。……そしたら大反対されまして(苦笑)。
――え、反対されたのですか!?
山口 そう。堤さんに「解答者が取ったものをテレビ局が消すというとは、なんたることだ!」ということで大反対されたんですよ。でも、東京から来てた大野武雄さんという作家の方が「それ、面白いんじゃない?」ということで加勢してくれて。それで実現したんです。

『アタック25』に必要なのは
視聴者が答えれられる易しい問題

――山口さんは現在、『アタック25』のクレジットでは問題アドバイザーとなっていますが、今でも問題作成はされているのですか?
山口 はい、46年間ずーっと続けてます。やっぱり、問題を作るのが好きですから。あと、自分が作った問題を、自分と同じような好奇心を持っておられる方に答えてもらうのがすごく快感なんです。
――では、物知りな方が解答席にいると腕が鳴ると。
山口 とはいえ、今の東大生のクイズ番組とか、ああいうレベルのものはまったくわからないので(苦笑)。あそこまでいくと、僕の興味からははみ出しているというか……。僕が「面白いな」と思うのは、今はもうあまり言わないけど、いわゆる「お茶の間」でテレビを観ている、主婦の方とか若いお姉さんが「私、知ってるわ!」って答えてくれる問題なんですよ。そういうクイズを作ってきたんです。
――なるほど。
山口 実は僕が『アタック』に入った時に「他の人は百科事典とか教科書から難しい問題ばかり作ってくるから、みんなが答えれられる易しい問題をなんとか作ってくれ」って言われて。それで週刊誌とかスポーツ新聞とかを全部買い込んで、そこから他の人とまったく違うジャンルの問題を作ってたんですよね。
――そういえば、番組40周年を記念して刊行された『アタック25公式ガイドブック』でも「女性が答えられる問題が一番作り甲斐がある」とおっしゃっていましたね。
山口 そうそう。もちろん難しい問題も嫌いじゃないですけど、それ以上に「芸能週刊誌を読む若い女性やおばちゃん、スポーツ新聞を愛読しているおっちゃんら、いろんな人が『知ってるよ』と言って自慢してくれるような問題を作りたい」と思ってますね。

チャンピオン大会の前日に見た
挑戦者の姿が忘れられない

――46年の歴史の中で、山口さんにとって印象に残っているのはどんなシーンでしょうか?
山口 昔は観覧の人が、「この人が優勝する」と思う解答者のうしろの席に座ってたんですね。で、当時は東リがスポンサーなので、当たったら小さなカーペットをもらって帰ってたんですけど、それを手にした観覧の人たちが喜んでいたのは懐かしい風景ですね(笑)。ほかのクイズ番組にはない、庶民的というか、大阪ならではの企画だったなぁと思いますね。
――出場者の中で思い出に残っている人はいますか?
山口 それが、いるんですよ(笑)。「日本一のクイズ王を決めよう」ということで、全国で予選を行って各会場でトップの方を集めたことがあるんですけど……。
――95年の「20周年大会」と、04年の「30周年大会」ですね。
山口 そのどっちだったか忘れてしまいましたけど……。その収録の前の日に、解答者がみんなABCの向かいのホテルに泊まったんです。で、収録前の夜にスタジオに行ったら、その中の1人がひざまずいてね、祈るような姿で何かを念じてるんです。「どうされたんですか?」と聞いたら、「明日の戦いですごく優秀な人がいる」「彼には実力では勝てないから神頼みです」と言われて(笑)。
――はあー!
山口 額を床につけて念じていたんですよ。そのクイズに対する情熱に、いたく感動しましたね。結果はその人が予想した通り、一番の実力者が勝ったんですけど、クイズに対して、そこまで入れ込んで情熱を燃やしてくれているのはうれしかったですね。あれは忘れられないです。やっぱり、好奇心のある人ってのは素晴らしいと思うんですよ。僕自身が好奇心があるほうなんで。だから、「そういう好奇心の強い人たちをどう見せるかを、制作者が苦労していかないといけないんだろうな」と思いますけどね。だって、モノを知ってる方というのは、オリンピックで優勝するアスリートに匹敵するような魅力があると思うんですよ。それはそれでうまく演出できたらいいんじゃないかな。
――そういう意味で言うと、すごかったのは700回記念の『大学対抗!100人の大サバイバル』(89年1月)ですよね。
山口 あー、あれも楽しかったですね!
 「ちょっと全国的になんか大きいことやろうか」ということで。大サバイバル大会は全部で3回やりまして、いずれも大盛り上がりで視聴率も大変良かったです。その中でも、800回記念の3回目の大会の時(91年1月)のことはよく覚えています。大阪に学生を呼んで予選が出来ないので、スタッフが手分けして各大学まで足を運び、予選をして25人を選んできました。僕とディレクターの岩城さんと2人で行った福岡市の九州芸術工科大学(現在は九州大学と統合)は特に印象に残っています。大学の寮で予選をしたのですが、学生だけでなく寮長のおじさんやおばさんまでも参加してくれて。

――山口さんも自ら予選会に足を運ぶことがあるのですね。
山口 あの時はディレクターの岩城さんと2人で行きましたが、九州芸術工科大学の皆さんは、それこそオリンピックに出場するような気持ちで来てくれましたね。そのサバイバル企画の時以外だと、女子大学生大会の時には参加者に集まってもらうために、クイズ研があるところはそこを介して集めてもらったり、過去応募してもらった学生に連絡をしたり……。で、大学までスタッフが行って、女子大生向けの予選をしたこともありますね。私は『プロポーズ大作戦』の頃から、出てもらう人を探しに大学を訪ねたり、引率して収録にお連れしたりしてたんですけど、同じようなことを『アタック』でもやったと(笑)。
――これまでに手がけてきた視聴者参加番組のノウハウが、『アタック』でも活かされたのですね。残念ながら、その『アタック』がこの9月で終了することになりました。率直なお気持ちをお聞かせください。
山口 思い出すことはたくさんあるんですけど、一番は「やっぱり児玉清さんはすごかったな」と。やはり博学であられたし、あのアタックチャンスの手の振るしぐさも……。まさに「アタックチャンスおじさん」ですよね(笑)。一言で言うと「児玉清さん=『アタック25』」、それにつきますよね。そんな児玉さんと一緒に番組を作って、旅行にもご一緒できて……。今は特に、児玉さんの素晴らしさを直に感じています。

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