「クイズは共同幻想である」という
前提に立つと見えてくるもの
――あと印象的だったのは、225ページに書かれた「こうしたストーリーが、それを信じてきた私を含むクイズ仲間たちによる共同幻想なのではないか、という疑いを持ったのである」というところです。僕が「QUIZ JAPAN」12号で、「オープン大会というのは、テレビにおける日本一決定戦がなくなったことへのコンプレックスから生み出された、モチベーションを保つための『虚構』である」という表現をしていて。伊沢君も今回の本で引用してくれていましたけど。ここは、同じことを言ってるなと思ったんですよ。
伊沢 多分ベースのところは同じですね。
――ぜひ、こう思うに至った話を聞きたいです。
伊沢 僕の責任の範囲では僕の論についてしか言及はできないんですが、おそらくこれは少なくとも一線級のプレイヤーたちは多かれ少なかれ共有していることなのかなと思うんですよ。さっきの地球押しの話もまさにそうで。明文化されてないルールというものが早押しクイズの中にあるわけですよね。徳久さんが言うところのデータベースだったりとか、僕が今回書いたような構文論だったりとか、なんでこうなったかに対して理論付けは一応はできますけど、たしかに存在する我々の中のルールです。一方でそれって「いやそうじゃないでしょ」っていう例外も、よく考えたら用意しうるものではある。それこそ長戸さんの時代でもそうかなと。長戸さんが作った型も「今こういうふうに行われてるクイズというのはこういう形で理論化できますよ」という後付けで解説をしたものであって。まず理論があって、そこに紐付いてクイズがあるわけじゃないですよね。ということを考えた時に、じゃあ「その理論って果たして正しいの?」「みんなが納得するものなの?」「人に説明できるものなの?」というのはやっぱり疑問がつく。実際、僕も他人に説明している時に「でもこれってこうだよな」みたいに思うことっていっぱいあって。その中で、一つのルールをコミュニティで共有しているというのがクイズの在り方なんじゃないかなと。別に僕はそれを否定するつもりはないし、そういうゲームが大好きなんですけどね。
――なるほど。
伊沢 僕の友人の佐々木あららさんっていう歌人がいるんですけど。短詩形文学とクイズの類似性みたいなことを「ユリイカ」で指摘してて。つまり、クイズというのは、内在する定型があって、31文字で書かれてるものを何となく短歌調で読んでしまうように、クイズになると気持ちいい文章っていうのがあると。そういう型というのが何となく共有されてるんだけど、一方で型というのは、共有されればされるほど、それが気持ちいいと感じる人にとっての気持ちいい形でしかなくて。で、その気持ちよさが共有されて型が明文化された段階で、すでに先鋭化していると。気持ちよくなってる人の中での型というのが明示されることで、さらにそこからどんどん先鋭化して、共同幻想の度合いが強まって、型としての需要を失い崩壊していくと。型というのは明示された段階で崩壊していくものなんだよって話を書かれていて、「それだな」っていう。
――その指摘は鋭いですね。
伊沢 『クイズは創造力/理論編』は後付けをすごくちゃんとやってくれた本なので素晴らしいなと思うんですけど、僕が今回やってることもあくまでも起こってる現象の後付け、描写に過ぎなくて、後付けをしている中でどうしても「こぼれ」が出てきちゃう。そのこぼれを「みんなに納得してもらうのはそもそもできないな」というのは、僕の中では前提としてあって。でも、それでいいと思うんですよ。少なくとも、今クイズはこの本に書いたような現象でもって成立していることは事実だから、それをいったん型として描写する。「理論の先にクイズがあるのではない以上、僕が務めるべきは現実の現象を描写することであり、そういう型があることは規格化を恐れずやるべきことなんだ」と考えました。たとえ局所的かつ先鋭化した例だったとしても、『東大王』で起こっている「世界遺産を上から出す」みたいなのも、それはそういう共同幻想としていったん現状を書いておく。「上から見た時に面白くて、しかもテレビ映えが必要だから早く押せるようなものしか出ないよね」っていう共同幻想なんです。でも、それはクイズというものが面白くなるために必要だから、それは否定しない。こういうスタンスに、かなりの慎重さを注釈として添えて、この本ができあがりましたね。
――クイズって、自分の好きな価値観を見つけた時に、その共同幻想を絶対視しちゃう。で、違う価値観と接触した時に、宗教戦争になっちゃうみたいな不幸な連鎖をずっと続けてきて。それは3大クイズ王番組の時代でもそうだし、その後のオープン大会的なクイズの世界でもそう。同じクイズ好き同士が、ドグマ対ドグマの宗教戦争になっていくのは、「自分たちのクイズも所詮は共同幻想であり虚構なんだよ」という客観視ができないせいなのかなと思うんですよね。
伊沢 僕も囲碁や将棋とかと比較することが多いですけど、囲碁や将棋はルールがあるんですよ。クイズはそのあたりは不定なので、比較にそぐわない面も出てくる。だから、あららさんが詩と比較してるのはすごく面白い。あの定型詩というのもルールがあるようでなかったり、ないようであったり。すごく境界線が曖昧なので、クイズに似てるなと思って。
――たしかにそうですね。
伊沢 クイズと詩って、比較対象として全然考えたことはなかったけど、すごくヒントになりました。しかも、文学の世界の方々はめちゃくちゃ議論してきてるわけじゃないですか(笑)。「定型に従うべきだ」「べきじゃない」って話が積み上げられているわけで。それでいて、彼らは少なくともその共同幻想を楽しんでるわけで。だって別に17文字で俳句を作る必要なんてどこにもないし、感情を表現する上でそうである必要なんてないわけですよね。でもそれを楽しんでるというのは、クイズとして、こうである必要はないんだけど、でもこういうものだと思って楽しむみたいな、クイズというゲームへの没頭の仕方にも近いかなと思っていて。あとは僕がこの本を書く上でずっと気にしていたのが、最初にも言いましたけど、これが規格化しちゃうことがすごく怖くて。この本にも書きましたけど、田村正資に「お前は歴史を作るのか、書くのか」と、当事者でいながら書くことの難しさみたいなのはずっと言われていたので。でも、当事者だけど書かなきゃいけなくなってしまった時に、僕が書いたものが過度に聖典化してしまう、過度にこれが規格になってしまって「文法はこの25じゃなきゃダメだ!」みたいになるのは絶対に避けたくて。
――なるほど。
伊沢 で、そのために注釈を大量につけて、いっぱい言い訳を書いたんですけど、それでも「やっぱり逃れられないかな」と思ってたんですけど、1年ぐらい前にあららさんの話を聞いて。「型は自壊していくよ」っていう話があった時に「あっよかった」と思って。僕が25の型を残したことによって、少なくともこれをぶっ壊そうとする人は出てくるし、で、壊れうるものだと。これが共同幻想であるという前提に立ってこれを読めば、もっと気持ちいい世界を見つけてくれる人とか、気持ちよさの範囲を広げる人が出てきて、この共同幻想を拡張したり縮小したりしようとする流れが出てくるはずなんですよ。だから、これだけが気持ちよい世界というのは訪れないだろうと。長いスパンでこの本を見た時に、これは必ずしも永遠に影響を残すものじゃないなというふうには思えたので。実際、長戸さんの本がそうですしね。『クイズは創造力』という名著があったにも関わらず、さらに新しい進化が遂げられたという前例があったので。だから『クイズは創造力』の、特に『理論編』に関しては、自信を与えてくれた存在ですし、そういうものがあったからこそ、いい意味で規格化を恐れずにいられたかなと思いますね。
――でも、話を聞いていると、クイズ以外の世界との出会いが伊沢君にとって大きかったというのがよくわかります。
伊沢 そうですね、結果的にそれが僕にプラスワンの要素をくれたというか。あとはそっち側の人たちが越境してクイズの方に来てくれたってことですよね。サッカーの話をしてても、あららさんと詩の話をしてても、来てくれてるんですよね。厚労省から「年金とか社会保障の話を全世代に伝えてほしい」とオファーをいただいた時も、まさにクイズの話をしてくださって。クイズによる能動化というのは、ジャンルを超えて何かを伝えるツールとして素晴らしいし、しかも伊沢は若者のところに行ってるから若者の感覚もわかるだろうと。まさにノックしてくれて、僕に越境の機会を作ってくれたのが、その内閣の全世代型社会保障広報会議だったので。そういう経験ができたのはすごく大きかったですね。変な経験をいっぱいしたおかげで、クイズのほうに戻ってこれた。
――クイズの世界にいただけでは到達できないことを、伊沢君は外の世界を冒険して、経験を持ち帰ってきた結果がこの本に結実したと。
伊沢 そうですね。でも、それも僕がどこかに行ってる間にクイズのことを考えてくれた人がいるからであって。9割押しの話とか、最近の理論みたいなのも若手がいっぱい考えてくれたからだし、クイズの歴史に関しては大門さんはじめ先輩方にものすごくお世話になりましたから。クイズ界の人たちが助けてくれたんですよね。だから僕のオリジナリティみたいなのはまとめ方であって、内容ではないなと思うんですよね。ずっと言ってるのは、僕はゴールを決める役であって、ここまでボールを供給してくれたのは、ほかならぬクイズ界の人たちだというのは思いますね。