1977年から1992年にかけて放送され、後に(1998年)一度だけ復活した伝説のクイズ番組『史上最大!アメリカ横断ウルトラクイズ』。バブルの頃の最盛期には5億円にも達する番組制作費がかかり、ギネス・ワールド・レコーズに「世界で最も制作費のかかったクイズ番組」として記載されたほどの圧倒的なスケールが人気を呼んだお化け番組だ。
司会の福留功男・福澤朗両氏による「ニューヨークに行きたいかーっ!?」という決めフレーズ、「どろんこクイズ」に代表される名物クイズの数々は、令和の世となった現代においても、漫画やCM、バラエティ番組のパロディ企画など、あらゆるところで目にするほど、世代を超えて受け継がれている。実際の番組をテレビで観ていたという世代はもとより、18歳以上という参加規定をクリアして番組に応募できた出場者は、ラストとなった『今世紀最後!アメリカ横断ウルトラクイズ』(1998年放送)当時の最年少であってもすでにアラフィフ。現在では視聴自体が困難であることもあって、文字通り「伝説」となっている。
そんな伝説のクイズ番組の狭き第一次予選の関門を突破した全17回の歴代出場者が集う「ウルトラクイズ合同同窓会」が、2012年、2016年に続いて、3度目の開催となった。
ちなみに前回のレポートがこちら
https://quizjapan.com/2016/06/06/post-1095/
私(『QUIZ JAPAN』編集長・大門)も98年の『今世紀最後!ウルトラクイズ』の成田敗者ということもあり、前回に引き続き、取材もかねて同窓会に参加させていただいたので、その模様をお伝えしたい。
さて、まず会場で目をくぎ付けにしたのは、『ウルトラクイズ』の代名詞ともいえる、あのウルトラハットとテーブル!今年の1月から2月にかけて、横浜市の放送ライブラリーにおいて、「特別展示『史上最大!アメリカ横断ウルトラクイズ』」と題して、ウルトラハットとテーブルが設置され、記念撮影コーナーには全国から多くのクイズファンが集まったことは記憶に新しいが、今回はなんと、早押しボタンを押すと、ピンポンの音とともにハットのクエスチョンマークが立ち上がるという当時と同じ仕様!! これはこの「ウルトラクイズ合同同窓会」の幹事の方々からの熱烈なラブコールに、当時の総合演出だった元日本テレビの加藤就一氏や、現在も機材を保管されている「日本テレビアート」、そして実際に稼働させてくださる技術会社の「コマデン」のご尽力とご協力によって実現した。
▲左から美術担当の黒木遠志さん・新野孝夫さん・鈴木喜勝さん、海外同行ドクターの阿部聡さん、総合演出の加藤就一さん
この奇跡のような同窓会に、実に101名という出場者と、5名の番組スタッフが駆け付けた。まずは幹事である平田由佳さん(第12回フェゴ島敗者)・高畠操一(第8回ハワイと第12回バロー敗者)さんによる「ニューヨークに行きたいかーっ!?」という掛け声とともにスタート。続いて、ビデオレターを依頼されていたという初代クイズ王・松尾清三氏は残念ながら今年5月に逝去されたため、同じ第1回で旅をされた、関西クイズ愛好会の盟友である北畑治さんと、同じく第1回の準優勝者・藤原滋子さんによってご挨拶が行われた。その後はステージで、第1回から第17回までの出場者を各回ごとに撮影する催しが行われた。当時、予選を突破したにもかかわらず、ウルトラハットをかぶることなく途中敗退してしまった出場者に優先的に席を勧めたり、放送から四半世紀以上ぶりにハットと再会してその重み(ハットが立つ反動も!)を噛みしめるように味わう方もいたりと、まさに万感の思いを込めた記念撮影タイムとなった。
今回は全17回分の参加者の記念写真を特別に掲載させていただく許可をいただいたので、ぜひご覧いただければ(第4回のみ参加者ゼロ。ちなみに第11回の記念写真には、この回から総合演出を担当された加藤就一さんもいらっしゃいます)
その後は、なんと総合演出・加藤さんによる福留功男さんのメッセージの代読が!! その内容を一部ご紹介させていただきます。福留功男です。80と2歳になりました。ですが、今も週2で20キロのロードバイクで鍛えています(中略)。これほどの歳月が流れても、みんなで集まれる番組を皆さんとご一緒できたことは、私にとって最大の冥土の土産です。
時の流れと、変わらぬ福留節に想いを馳せたところで、続いて行われたのはエキジビション。なんと全員参加のジャンケン大会で勝ち抜いた4名がウルトラハットを被っての、『ウルトラクイズ』に関するクイズ大会!(第1回から8回までと、第9回以降の2回行われました)
さらにこの日お集まりの歴代チャンピオンによる集合写真の撮影では、会場中からカメラを持った参加者がステージ前に集結! そりゃ撮りたいですよね!かつて『ウルトラクイズ』に心躍らせた世代にとっては夢のような催しも、時間はあっという間。最後はテーブルが折りたたまれて撤収されていく様子を眺めていたら、当時のスタッフでもあり、日本テレビアートで機材を管理されていた鈴木喜勝さんと新野孝夫さんが、ウルトラハットやテーブルの秘密を教えてくださいました。
鈴木 『ウルトラクイズ』のテーブルは、長旅で戻ってくると、塗装が剥げたり、「クイズ」の濁点が取れて「クイス」になっていたり。だから、アメリカのロケに行く前に必ず補修をしてたんです。でも実は番組が終わっちゃったときに、これらを全部処分するという話になったんですけど、僕が担当だったので優勝旗とハットとテーブルだけは残したんです。『今世紀最後』で戻ってきたあとは、塗り直したりせずにそのままになっちゃって。次回がないので直して保存なんて、当然できませんから。ハットの方はジュラルミンでできていて軽いんですけど、モーターの部分が重いんです。なぜモーターを使っているかというと、実は風の対策なんです。要するに無理やり上げて、それをまた無理やり戻す。なぜ無理やり上げるかというと、向かい風でも立つようにするためなんです。それでも風が強すぎて立たないことが何回かありました。それをモーターを変えて立つようにしたんです。逆に追い風の時は、立つのが強すぎたり。屋外のロケだったので、そういうところが本当に大変でしたね。美術のトランクは全部で50個でした。で、チェックポイントごとに使う道具と使わない道具があるので、これは絶対に使わないという機材はホテルに置いておくんです。
新野 テーブルを入れるジュラルミンのトランクは2台入りと3台入りと4台入りの3種類があって。で、美術のトランクは緑色のガムテープが目印。赤が技術(カメラクルー)、黄色は音声、制作は白。ガムテープで色分けしてるから一目瞭然なんです。各セクション50個ずつぐらいなので、空港で数を確認して飛行機に乗る。それの繰り返しでしたね。
▲これが緑のガムテープを貼ったトランク。当時は200個近いトランクを運搬しながらアメリカ各地を転々としていたという。
▲塗装の剥げや、「アメリカ横断ウルトラクイズ」の文字が欠けているところに、当時のロケの過酷さが刻まれている。
まだまだ『ウルトラクイズ』にまつわる話は尽きないですが、合同同窓会のお話はここまで。「もっと読みたい!」と思った方は、総合演出を担当された元日本テレビの加藤就一さんが、若き日の『ウルトラ』奮闘記を執筆してくださっていますので、ぜひKindleとnoteでお買い求めください。
元日本テレビのディレクターによる伝説のクイズ番組『アメリカ横断ウルトラクイズ』の回顧録『MAKERS ウルトラクイズの匠たち』を電子書籍化!
https://quizjapan.com/2024/10/01/post-19110/
また、現在発売中の雑誌『昭和50年男』でも『ウルトラクイズ』に関する記事があるそうですので、ぜひこちらもご覧ください。